●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)四月二十日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「年 齢」
(『小林秀雄全作品』第18集所収)
「思想という言葉」
令和五年四月二十日には「年齢」「思想という言葉」のご講義を賜わり有難うございました。
「年 齢」
「年齢」では孔子の「耳順」という言葉に焦点を絞ってお話し下さいました。
孔子についての三人の大学者、仁斎、徂徠、吉川幸次郎の各人が「耳順」という言葉をどう理解していたかを示され、そのうえで小林先生は、「恐らく孔子が音楽家であった事に大いに関係がある言葉だろう」と、小林先生自身が読み取った意味合いを提示されます。池田塾頭はこの本文を読み上げられ、孔子と同じく非常に音楽が好きで感覚を修練された小林先生ご自身に重なるとして注目されました。それは、「すると、耳順とはこういう意味合いに受取れる」に始まる、二十五の読点からなる一文で一気に語られます。四月の講座の案内には全文が引用されていますが、後半で、小林先生は話し言葉の重要性に移っていかれます。先生は、批評家として、書くことによってこそ自分の伝えたいものが言えると、一貫して書き言葉を磨いてこられましたが、昭和二十五年に発表されたこの作品で、肉声に託した話し言葉が持つ、言葉本来の力に着目されます。それは「本居宣長」を書くと決意された時と軌を一にしていると池田塾頭は指摘されました。
そこからさらに、「耳順」が「本居宣長」の原点に、中心軸にあると敷衍され、小林先生が「耳順」という言葉に捉えた奥行の深さを示されました。
余談ですが、私塾レコダ l’ecodaの池田塾頭の「小林秀雄『本居宣長』を読む」の講座で「古事記伝」に取り掛かる本年度から、地元の神社の氏子総代を、人手払底のため引き受けることになり、「窃に奇しみ思」っています。今回のご講義の前日に、春の祭事を十数人で準備をして、湯立という神事に臨みました。式次第のなかで宮司の祝詞を聞き、幾度となく聞いてきた祝詞の奏上が、初めて肉声として伝わって来るのが実感されました。神社の神事という、折に触れて習慣のようになっている身近な経験にも、少しばかり想像力を働かせ、その発生へと思いを致すなら、意外と「古事記」への道に通じているのが感じられました。四月六日の「本居宣長」第二十八章のご講義で、宣長は「古事記」を文字で書かれる前の音声を写し取った話し言葉として読んだ、と拝聴した(今回も言及されましたが)からこその経験でした。
「思想という言葉」
「思想とは実生活の写し絵ではない、現実を超えようとする意志の力、新しい人生を模索して新しい人生を始めようとする意志の力である」というお話しから、小林先生の正宗白鳥とのいわゆる「思想と実生活論争」にも触れられました。
「あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか」という、心に響きながらも得心するまでに至っていなかった、小林先生のこの言葉の核心をつく註釈、そう捉えて良いのではないかと思いました。
また、小林先生が「本居宣長」を書かれた際、荻生徂徠の文章を諸橋轍次の『大漢和辞典』で引きながら一語一語読まれた並々ならぬ忍耐と苦労を聞かせて頂きました。文は人なりの読書を実践されてきた小林先生の長年の孤独な仕事の基底にある、作者に対する敬愛の念の大きさに、改めて目を開かれました。
千頭 敏史 <感想> 「年齢」「思想という言葉」
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