●金森 いず美
令和五年(二〇二三)四月二十日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「年 齢」
(『小林秀雄全作品』第18集所収)
四月の「小林秀雄と人生を読む夕べ」は、小林先生が四十八歳で書かれた作品「年齢」でした。書き出しは「私は、今まで自分の年齢という様なものを殆ど気にした事がない」という一文から始まります。私自身は若い頃から、今よりも上の歳になりたいと願ってばかりいたため、小林先生が年齢についてどのようにお考えになられたか大変興味深く感じ、この作品を読みました。
小林先生は、「論語」の一節から、「六十にして耳順う 」という言葉を取り上げます。ご講義では池田塾頭が、「耳順」についての仁斎、徂徠、吉川幸次郎氏それぞれの解釈をお話しくださり、それらの解釈を踏まえて、小林先生の洞察といえる文章を読んでくださいました。言葉の一つひとつを大切に読まれる池田塾頭の声は、小林先生の心に寄り添いながら様々な調子を帯びていき、孔子の言葉のうちに入り、己れを語る小林先生の姿が、池田塾頭に重なって見えてくるように感じられます。
批評家として「書き言葉」に向かい続けていらっしゃった小林先生が、この作品をターニングポイントとして、人間の「声」から生み出される「話し言葉」に心を向けられたこと、そして、「古事記」は日本古代の話し言葉がそのまま文字化されていると見て「古事記」を読み解き、「古事記伝」を著した本居宣長について書こうという思いを胸にこの年から翌年にかけての頃、折口信夫氏を訪ねられたのだと思うと話される池田塾頭のご講義を聴きながら、小林先生の心の躍動が伝わってくるようで、胸がじんと熱くなりました。私たち受講者は、それぞれの耳で、小林先生の文章と池田塾頭の声が生み出す調べを聞いています。この「交差点」の場で、受講者の皆さんがどのような思いを持たれたのかを知るのも、最近の楽しみの一つとなりました。
この作品で小林先生は、谷崎潤一郎の「細雪」に触れ、「月並みとか通俗とか言ってはいけないだろうが、美しいものには、何かしら分り切った大変当り前なものがある様で、それを知覚し自覚するには、どうも年齢の作用に俟つ他はないのではあるまいか」と仰っています。人間の感覚は磨かれ、年齢とともにまろやかになっていくこと、ものごと本来の姿を捉えるのにはその成熟した感覚が必要なこと、そしてそれは、年齢を重ねなければ、真の意味では分からないのだということを、この作品を読み、自分に重ね合わせて深く考えさせられました。早く歳を取りたいと闇雲に焦っていた若い自分にはおそらく掴めていなかったであろう「細雪」の美の姿。年齢を重ねたいま、谷崎潤一郎の名文はどのような姿に見えるのだろうか。五月の休みは、喧騒から離れて、久し振りに開く「細雪」に自分を映しながら、「年齢」について、もうしばらく考えを廻らせてみたいと思っています。
金森 いず美 <感想> 「年 齢」
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