冨部 久 <感想> 『萬葉』秀歌百首

●冨部 久 
 令和五年(二〇二三)四月二十七日
 <新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
 まきむくの はらもいまだ くもねば 
    小松がうれゆ あわゆき流る
     (人麻呂歌集 巻第十 2314番歌)

 この歌の妙味は前半の静と後半の動、しかも激しい動との対比であろう。即ち、前半では雲のない静かな空が描かれているが、そこから一転、視線を松の梢に移すと、白く細かい泡のような雪が風に吹かれて横なぐりに降っているというのである。人麻呂は「その順序を踏まない天候の急変に興を示して」歌ったと、伊藤博氏の『萬葉集釋注 五』(集英社)にあるが、この歌の名手は何とも雄大かつ繊細にその不思議な世界を描き出していると感じた。
 実はこの歌の世界には既視感があった。
 これは人麻呂が住んでいた巻向山の麓の檜原あたりのことを歌っているが、私も十代は比叡山の麓である一乗寺に住んでいて、空は晴れているのに、冬の冷たい空気がどこからともなく粉雪を運んでくるという景色を何度か見たことがあった。恐らくは比叡山の反対側あたりに雪雲があって、そこから粉雪は飛ばされて来るのであろう。そんな山の様子をじっと見ていると、やがて山頂が雲に覆われ、それが次第に麓まで降りて来る、すると本格的な雪が降り出すのだった。自分のかつての経験も相伴って、この歌は二重に心に沁みた。

 また、新潮社で小林秀雄先生の本と新潮日本古典集成の「萬葉集」、その編集を同時に担当されていた池田雅延塾頭によると、「新潮萬葉」の校註者の一人であった伊藤博氏は小林先生から古典の読み方を教わったと言われていたそうである。その伊藤博氏が、この歌に絡めてこう言われている。
「すぐれた存在を讃美することは身命を縮めるような厳粛な行為であることを思わないわけにはゆかない。(中略)批評とはほめることであり、ほめることが創造につながるのである」
「萬葉」の世界と現在は直に繋がっていると、改めて今回の歌でも感じた。

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