千頭 敏史 <感想> 『萬葉』秀歌百首 

●千頭 敏史
 令和五年(二〇二三)四月二十七日
 <新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
 萩の花 咲けるを見れば 君に逢はず 
   まことも久に なりにけるかも
     (作者未詳 巻第十 2280番歌)

 まきむくの はらもいまだ くもねば 
    小松がうれゆ あわゆき流る
     (人麻呂歌集 巻第十 2314番歌)

 令和五年四月二十七日には「『萬葉』秀歌百首」のご講義を賜り有難うございました。
 今回は、「萬葉集」全二十巻の収録歌四千五百首超のなかから秀歌百首を抜き出して味わう意味合についてもお話し下さいました。
 質屋の主人は、小僧さんの目を育てるのに超一流品だけを毎日見せる、一切の講釈なしにひたすら見せる、こうして、一流品を見る目をしっかり養っていれば、二流品や偽物はすぐ見抜けるようになると言われています……。
 これを聞いて、小林秀雄先生が「作家志願者への助言」(「小林秀雄全作品」第4集所収)のなかで、「読むことに関する助言」の第一に挙げられた、「つねに第一流作品のみを読め」に続く文が思い起こされました。小林先生はこう言われています。
「質屋の主人が小僧の鑑賞眼教育に、先ず一流品ばかりを毎日見せることから始めるのを法とする」、「いいものばかり見慣れていると悪いものがすぐ見える、この逆は困難だ。惟うに私達の眼の天性である。この天性を文学鑑賞上にも出来るだけ利用しないのは愚だと考える。こうして育まれる直観的な尺度こそ後年一番ものをいう。」
 学生の頃から愛読してきたこの文章で言われていることは、萬葉歌の鑑賞についても当然同じことが言えるということで、それに思い至らなかった迂闊さに恥じ入りました。
「萬葉」秀歌百首とは、「萬葉集」に留まらず日本の和歌の歴史の中でも超一級品である、従って、萬葉秀歌百首で鑑賞力を養えば、他の歌も的確に鑑賞できると伺い、得心しました。
 また、京都大学の教授で「萬葉学」の大家だった澤瀉おもだか久孝先生は、自分の選んだ萬葉歌百首でカルタをつくり、正月には学生たちをこの萬葉カルタで遊ばせるのを恒例にされていましたが、それに参加していた弟子の伊藤博先生は、後年、この澤瀉百首のカルタ拾いを通して萬葉秀歌をそらんじたことが自分自身の萬葉理解にどれほど有益であったか測り知れない、と言われていたとのことで、「こうして育まれる直観的な尺度こそ後年一番ものをいう」という、小林先生の言葉そのものと合点しました。
 今回の鑑賞歌は、
 2280番歌「萩の花 咲けるを見れば 君に逢はず まことも久に なりにけるかも」
 2314番歌「巻向の 檜原もいまだ 雲居ねば 小松が末ゆ 沫雪流る」
 いずれも一人で読んでいただけでは、他の歌と紛れて読み過ごしていたに違いなく、ご講義を通じ、伊藤博先生の釋注に導かれてではありますが、超一流品を前にした質屋の小僧の修行を体験する思いです。
 2280番歌では「まことも久に云々」が確かに伊藤先生の言われるとおり「何とも言えずいい」と感じ、2314番歌では「小松が末ゆ 沫雪流る」が読むごとに魅力を増すように感じられます。
 この2314番歌の調べについて伊藤先生は、『萬葉集釋注 五』(集英社)で「人麻呂声調の極致を示しているといってよい」、「表現の神秘をすら感じさせる」と激賞された後、このような名歌に接すると、「この世において、物をほめることのむつかしさを痛感せざるをえない。すぐれた存在を讃美することは身命を縮めるような厳粛な行為であることを思わないわけにはゆかない。比べて、対象を貶めて言うことなど、何と軽々しく安易な営みであることか。批評とはほめることであり、ほめることが人間の創造につながるのである」と言われます。
 池田塾頭は新潮社に入社した二年目の春に「新潮日本古典集成」の「萬葉集」の係となって伊藤博先生と出会われ、その年の夏からは小林秀雄先生の本の係にもなったと話されて、伊藤先生は古典の読み方を小林先生に教わったと言われていた旨を紹介されました。
 伊藤先生は、ほめることを「身命を縮めるような厳粛な行為である」と強い表現で語られていますが、ほめるとは安易な営みではなく、ほめる対象に「身交むかい」、真価をしっかりと感受してこそ成り立つ行為であり、そうであってこそ「ほめることが創造につながる」のだと思われました。
 伊藤先生の「萬葉集」の釋文は、そのまま小林先生が「批評」と題された文章で言われている「批評とは人をほめる特殊の技術だ」という言葉についての第一級の釈文ともなっているのを覚え、その含意の深さをも池田塾頭は教えてくださいました。

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