事務局ごよみ(7)  ChatGPTと小林秀雄   安達 直樹


事務局ごよみ(7)
  ChatGPTと小林秀雄
安達 直樹  
 対話形式で、どのような質問に対してもかなりの精度で答えてくれる人工知能(AI)ChatGPT(チャットジーピーティー)が話題となっている。この人工知能は急速に改良が進んで、ついには米国の司法試験の模擬試験で上位10%の成績を取るまでになったそうだ。調べ物をするという行為が、「資料や文献に当たる」ということから、いつの間にか「インターネットで検索する」に置き換わってきているように、「AIに質問する」ことが主流となっていくのにも、それほど時間がかからないように思われる。教育の現場では、この人工知能が、「優」の評定をつけざるを得ない課題レポートをほんの数秒で仕上げてしまうために、大学の教員などは、学生の理解度や思考の力を「面接」で評価する必要に迫られるようだ。その一方で、あらゆる業種において、資料作成などの強力なアシスタントとなってくれるのではないかという期待も膨らんでいる。
 
 去る四月二日、山の上の家の塾では、茂木健一郎さんが「小林秀雄と人工知能」というタイトルで講演をしてくださった。冒頭で茂木さんは、世間が大騒ぎしているChatGPTの本質について、この人工知能がやっていることが、基本的にはインターネット上のすべての文章のデータを用いながら、次に来そうな単語が何かを統計的に予測して、「平均知」としての尤もらしい文字列を作り出すことだと、解説をしてくださった。次いで、人工知能が得意とする「統計知」が生成する「合理性」と、一人ひとりの「個人の経験」から生まれてくる「表現」とが、まったく別の領域に属すること、また、「表現」は生きている身体から発するもので、それゆえに、卓越した表現には人間の「成熟」が必要であることを指摘されたうえで、たとえモオツァルト風の音楽や小林秀雄風の文章を生成できたとしても、「成熟」を知らない人工知能には、モオツァルトや小林先生のような人の心を動かす表現を生み出すことはできないと述べられた。また、人工知能がこのような性質をもつことで、今後、私たちは、表現や創造とは何かという問いを突きつけられることになるため、小林先生の作品を読むことの価値は、ますます大きくなると締めくくられた。
 茂木さんが、「今回の講演は決して人工知能を否定するわけではなく、その立ち位置を相対化させる意味合いのもの」と言われた通り、これまでぼんやりと認識していたChatGPTの機能を、人工知能とは対極にある小林先生と対比させることで、私たちにはっきりと理解させてくださった。また、なによりもその講演が、茂木さん自身の熱がこもった訴えといった気味合いで、大きく心を動かされた。

 茂木さんの話に触発されて、すぐにChatGPTを使ってみた。その人工知能は、物知り博士のように、、文法的に間違いのない教科書のような文章を瞬時に返してくるし、すこしは気の利いた詩や和歌まで作ることができて驚いたが、それらを読んで心を動かされることはなかった。また、画面上にそつのない答えをつらつらと書き出す人工知能に、テレビやインターネットで、尤もらしい言説を表情ひとつ変えずに話すコメンテーターの姿が重なった。もしかするとそういう人たちこそ、最も早くAIに仕事を奪われるのかもしれない。そこに欠けているもの、尤もらしい正解を導き出す目的のために平均化を指向することで人工知能やコメンテーターが宿命的に見落とすもの、それは、私たち一人ひとりの人生の瑣事さじや機微である。小林先生は、著作の中で、瑣事の持つ力を知ることの大事を幾度となく説いている。そして、さまざまな人物の人生や生活の瑣事に研ぎ澄まされた眼を凝らすことで、過去に生きた人を、私たちの眼前に蘇らせる。

 茂木さんには、新潮社の『小林秀雄全作品』の第26集「信ずることと知ること」刊行に寄せて書かれ、その巻末に収録されている「合理を貫き、官能を生きること」という名文がある。どうやら私たちは、論理性と感性という二つの翼で飛んでいるようである。理屈ばかりを並べ立てて、虚しく片方の翼だけで羽ばたいてクルクルと旋回しているような人の姿は滑稽に映る(無論、旋回している者同士は、互いに止まって見える道理だが…)一方で、日々の経験は予測不可能で論理性はなく、私たちの感性を育てるが、みんなが一回性の生の経験を持ち寄るばかりでは、共通の話はできなくなる。人工知能はいわば、高性能の機械でできた一翼をもつ雛のようなものということになるが、茂木さんは先の文章の中で、極上の美しい双翼で飛翔する小林先生を描き出している。講演を聴いた池田塾頭が「小林先生の文章には、これが正解と言ってしまえるような大意や要旨はない」と言われたが、正解を出すことを使命としている人工知能と、批評という表現をする小林先生とでは、そもそもやっていることが違うということを指摘されたのだと、今になって思い至る。

 人の心を動かすような表現には、たしかに、「成熟」も大切な要素となるのだろう。小林先生は、「常識について」(『小林秀雄全作品』第25集所収)で、デカルトが自分の著想ちゃくそうを実行するまでに、「自分自身と世間という大きな書物」の他は何も頼まぬ「経験」「実習」「訓練」の九年の歳月をかけて成熟を待ったことなど、後世に残る仕事をした大人物にとって、自身の成熟や円熟、また、機が熟するということが大切であったことを書き記している。
 ——成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。其処には、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生む事は出来ない。(「還暦」/同第24集所収)
 小林先生自身、「近代絵画」に五年、「本居宣長」には十二年の歳月をかけた。
 今後、インターネットには人工知能が作成した文字列が氾濫するのだろう。その中で、人の心を動かし、いつまでも読まれるような言葉を遺すためのヒントは、やはり、「古事記」を三十五年の歳月をかけて読み解いた本居宣長が「うひ山ぶみ」で述懐した「倦まずおこたらず」ということなのかと、まるで帰巣本能に導かれるように、私はいつも同じ場所に戻ってきて反省をする。

 なお、茂木健一郎さんの同内容のご講演はYoutubeで公開されています。ぜひご覧ください。
   https://www.youtube.com/watch?v=Dhmb_U_Fjo0
(了)  

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