金森 いず美 <感想> 第二十八章 (下) あやしき言霊のさだまり

金森 いず美
 令和五年(二〇二三)五月十一日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む>
 第二十八章 下 あやしき言霊のさだまり

 「小林秀雄『本居宣長』を読む」五月のご講義は、第二十八章後半に入りました。小林先生が宣長の「古事記伝」と身交われる第二十八章の前半から後半へ、言語の伝統に直に迫る文章が続きます。小林先生の言葉は私の心を揺さぶり、日本語という母国語の、その奥底に流れる生命の繋がりを、この第二十八章で感じとることができました。
 ご講義の冒頭では、二十八章前半部を振り返り、「記の起り」について、池田塾頭が現代の私たちに親しい言葉でお話しくださいました。「自分たちはこう生きた」という古人の物語を、いま、古人の言葉で残さなければ……と天武天皇は、若き稗田阿礼に「誦み習はし」て、古人の言葉を語り継ぎます。後半部では、阿礼の語り言葉を「古事記」として書き表した、太安万侶の創意工夫のドラマが語られます。宣長は、安万侶が書いた「古事記」序文から古語の躍動を受け取り、小林先生は、想像力の限りを尽くして「宣長の心の喜びと嘆きとの大きなうねり」に身交います。体当たりのドラマが響き合い、一つの大きな連なりが見えてくる第二十八章、池田塾頭が「創意工夫の三重奏」と表現されたことが深く心に残りました。

 阿礼から安万侶へ引き継がれた「古語の掛け代えのない『姿』」は、安万侶から宣長へ、宣長から小林先生へと手渡されます。

 宣長の註には、「上古之時云々、此文を以テ見れば、阿礼がヨメる語のいとフルかりけむほど知られて貴し」とあり、又「言のみならず、意も朴なりとあるをよく思ふべし」と言う。(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.318)

 自国の文字をまだ持たなかった日本人に、外来の文字が降り注ぎます。上代の知識人は、「明言し難い悩みに堪え」て、「漢字」を自分たちの内に取り込みました。難事にぶつかり、苦しみを乗り越えた先に、安万侶は、日本語という母国語の姿を掴みます。漢文の書きざまに自分たちを当てはめて初めて気がついた、母国語の「朴」とした有りよう。彼が掴み直した日本語の「味わい」こそが、私たち日本人が身を預け、互いに語り交わし、知らず知らずのうちに培ってきた日本語の伝統、つまり、歴史の姿なのだと、感じました。

 安万侶の創意工夫は、小林先生に捉えられ、阿礼の「誦習」が物語の文を成していること、安万侶が「古事記」を書き表したその表記法を決定したものは、「与えられた古語の散文性であった」ことが語られます。さらに、小林先生は、宣長が着目していた「祝詞と宣命」に目を向け、祝詞、宣命に現れた助辞を辿り、「古事記」に息づく「言霊」に身交った宣長に、心を重ねます。「言霊」の働きは、古代から現代へ、時を超えて、私たち日本人を互いに結び、言語の伝統を紡いでいきます。天武天皇の志が絶えることなく継がれ、宣長から小林先生へ、そして私たちに真っ直ぐに届けられていることに、宣長の「貴し」という言葉が染み渡り、私の心は感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 小林先生は、私たちが古人に出会える道を大きく開いてくださっています。耳を澄ませて小林先生の声を聞き、「私たちは日本語を使わせてもらっている」と仰った池田塾頭の言葉に、一歩ずつ近づけることを願いながら、これからも「本居宣長」という作品に身交い続けたいと思います。

この記事を書いた人

ここに簡単なプロフィールなどを記載できます。

目次