●金森 いず美
令和五年(二〇二三)五月十八日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「『白痴』についてⅡ」
(「小林秀雄全作品」第19集所収)
「直観という言葉」
「小林秀雄と人生を読む夕べ」は、五月に「『白痴』についてⅡ」を取り上げました。「様々なる意匠」で批評家として文壇に出た小林先生は、三十歳の昭和七年、休む間なく書き続けた文芸時評と手を切り、その翌年からドストエフスキイの作品論に取り掛かります。それから六十二歳に至るまでの三十年間、小林先生のドストエフスキイに対する情熱は冷めることなく、幾つもの作品論をお書きになりました。ご講義のご案内文には「この「『白痴』についてⅡ」は、執筆にかかるやここぞという要所は原作をまったく見ずに書き上げたと言います、あたかも手練れのヴァイオリニストが楽譜に目をやることなく大曲を弾ききるようにです」とあり、池田塾頭のこの一文からも、小林先生の並々ならぬ思いが伝わってくるように感じました。ご講義では、「ぜひ皆さんも『白痴』を読んでください」と池田塾頭が背中を押してくださり、少し時間がかかりましたが、原作に触れ、ひと呼吸置いて、あらためて小林先生の弾く旋律、音の深さを味わう気持ちで、この作品に向かいました。
「白痴」のなかで、心の深淵を孤独に歩いていくムイシュキン公爵の姿は、私たち読者の前に現れては沈黙し、また現れては沈黙します。そこに公爵が確かに居て、目を開いて静かに見ているような感覚が度々私に降りかかります。それは、小林先生の語る、「気絶することのない意識」が、「意識たる事を決して止めない」ままに立ちはだかっているような苦しい感覚に似て、拭っても拭っても消えない、空恐ろしい感覚です。池田塾頭がご講義で仰った、「小林先生のドストエフスキイへの思いはただならぬものであった」というお言葉が、何度も私の頭を駆け巡ります。小林先生は、ドストエフスキイの「苦しい意識」、人々の言う真理や救いなどではなく、自分自身でなんとかしなければならない「意識の限界経験」を直に手にされ、この「『白痴』についてⅡ」という作品で、その深く苦しい心の淵の感触を表現されているように感じました。
「理想や心理で自己防衛を行うのは、もう厭だ、自分は、裸で不安で生きて行く。そんな男の生きる理由とは、単に、気絶することが出来ずにいるという事だろう。よろしい、充分な理由だ。他人にはどんなに奇妙な言草と聞こえようと自分は敢えて言う、自分は絶望の力を信じている、と。若し何かが生起するとすれば、何か新しい意味が生ずるとすれば、ただ其処からだ。」
「或る一点」を奥底に抱いて生きる苦しみ、そうして生きていることの絶望、しかし、それがあるがままの「私」の生存の意味である以上、ひたすらに歩いていくしかない。ムイシュキン公爵の姿は、ドストエフスキイの思想を映し、小林先生の奏でる音色は深く、私の心の奥底を震わせます。ご講義で、「ドストエフスキイは久しく私の思想の淵源であった」と小林先生の言葉を池田塾頭が繰り返されました。私には、小林先生の作品を読むのにもまだまだ時間が必要ですが、先生が深く読んでいらっしゃったドストエフスキイ作品にも、必ず時間を作って直に触れていきたいと、今回のご講義を受講し、強く感じました。
金森 いず美 <感想> 「『白痴』についてⅡ」
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