千頭 敏史 <感想> 『萬葉』秀歌百首

千頭 敏史
 令和五年(二〇二三)五月二十五日
 <新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
背子せこを 今か今かと で見れば
 あわゆき降れり 庭もほどろに
     (作者未詳/巻第十 冬雑歌 2323番歌)
あさかげに はなりぬ 玉かきる
 ほのかに見えて にし子ゆゑに
     (人麻呂歌集/巻第十一 正述心緒せいじゅつしんしょ 2394番歌)
 
 令和五年五月二十五日には「『萬葉』秀歌百首」のご講義を賜りありがとうございました。
今回の鑑賞歌の2323番歌:「我が背子を 今か今かと 出で見れば あわゆき降れり 庭もほどろに」は、「冬雑歌」の「雪を詠む」という題のもとに九首を配列した編纂者の意図を汲み、雪景色を詠んだ九首のなかの一首として味わう、それがこの歌を鑑賞する要諦であると説き起こされました。
 そして、「新潮日本古典集成」の『萬葉集 三』に記されている「庭に薄く積もった雪を詠んでいる」という一読しただけでは言われるまでもないと思えるこの歌の釈注は、この歌が「冬雑歌」という部立ての下に配され、「雪を詠む」という題詞を立てて置かれていることから、雪は雪でもどういう雪に主眼をおいて詠まれているかに注目を促すとともに、一方ではこの歌は相聞歌とも読めるが「冬相聞」という部立ての下には配列されていない、したがってこの歌は、冬の叙景歌として味わうべきであるという、契沖が示した「萬葉集」や「古今集」収録歌の鑑賞態度の表明ともなっています……、と話されました。
 伊藤博先生は『萬葉集釋註』で、この歌を「編者は、『沫雪降れり庭もほどろに』の景に重点を置いて『冬雑歌』の中に収めたのであろう」と言われ、窪田空穂、鴻巣盛広、安藤正次、土屋文明各氏の注釈を紹介して、「諸注、一首をむしろ相聞歌と解している、それでいいのだと思う」、「待つ人の来てくれぬ悲しみは奥にひそめた含蓄の深い歌だから、こういう待遇を受ける運命を持っていたというべきか」と言われています。池田塾頭はこの伊藤先生の釋註を引いて、歌を読み味わう態度といったものを示されました。すなわち、「萬葉集」や「古今集」など古典となっている歌集の収録歌は、編纂者の編纂意図に沿って読み味わうことの大切さを指摘されました。

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