事務局ごよみ(8)  夏といえば白   橋岡 千代 


事務局ごよみ(8)
  夏といえば白
     ――私塾レコダ l’ecoda「『萬葉』秀歌百首」へのお誘い 
橋岡 千代  
 前回の「事務局ごよみ」(5)では、池田雅延塾頭の講座「新潮日本古典集成で読む伊藤博氏撰『萬葉』秀歌百首」より、雪という天象を通じて冬から春を迎える「萬葉」の人々の心に思いを馳せました。今回は、持統天皇の夏の名歌に偲ばれる、女帝のおもかげをお伝えいたします。

 春過ぎて 夏来きたるらし 白栲しろたへの
  衣干したり あめの香具山
                   とう天皇てんのう

 この歌は百人一首でも知られる、夏到来の歌です。
 伊藤博先生の釈文では、「衣のその清浄な白さは、明快な夏の感覚を見事に表象している」「日本に夏がおとずれきった歓喜を、すこやかに宣言した歌であるといってよい」と書かれています。けれど、その一方で「萬葉びとは夏という季節をあまり好まなかった。『萬葉』では、夏の名歌が絶無に近いばかりでなく、夏歌自体が極端に少ない」とも仰っています。
 春の優しい花や清水に一年の始まりが朗らかになる芽吹きの季節が過ぎると、陽の光はだんだん強く照りつけるようになり、雨は緑をたくましくします。すると大気は湿度を含んで厚くなり、人々の気分も自ずとぐったりしてくるのでしょう。当時の暦は中国から渡来した太陰暦で、夏は四月から六月とされていましたが、現在の太陽暦では五月から七月頃に当たります。夏のイメージは「萬葉」の人々にとっては梅雨であったのかもしれません。
 では、持統天皇は、、人々の心に反して、どのような思いが働いてこの歌を詠まれたのでしょうか。伊藤博先生の『萬葉集釋注』(集英社刊)では、持統天皇の一生をこう紹介されています。

 ――姉とともに大海人皇子(天武天皇)に嫁し、草壁皇子を生み、皇統をこの子とその血脈に伝えることに腐心した。姉大田大田おおたの皇女ひめみこの他界(六六七年頃)によって優位を占め、壬申の乱の終わった天武二年(六七三)二月、皇后となり、天皇の陰で手腕を振るった。天武崩後、ただちに称制、病弱気味の皇太子草壁皇子の即位までの時をかせいだ。しかし、持統三年(六八九)四月、皇太子病死に及び、翌年正月即位。夫天武の遺業をひたすらに継承、かつ発展させ、きよ御原令みはらりょうの完成、戸籍の作成、藤原宮の造営など、充実した政治を行い、「萬葉」の盛期を築いた。持統十一年八月、孫の軽皇子かるのみこ(十五歳)に位を譲り、文武もんむ朝大宝二年(七〇二)十二月二十二日、世を終わった。――

 池田塾頭は、この、時代が大きく揺れるはざまで、数々の困難を乗り越えた持統天皇という女帝は、新しいものに対する感受性が豊かで、為すべきことは何かを適確に判断する力を持つ、進取の気性に富んだ方だったのだろうと仰っています。
 その一つは、大陸から入ってきた太陰暦の暦法を先に挙げた歌に取り込まれて、春から夏へと人の心が季節の変化に驚くことを歌にされたことですが、日本人はこの歌がうたわれてのち、春夏秋冬という言葉を意識的に使い始めています。しかも、祖父のじょめい天皇が「ひさかたの 天の香具山 このゆうへ 霞たなびく 春立つらしも」と詠って、萬葉人の心に、大和の中心に天くだった香具山にことよせて春の到来を浸透させたように、持統天皇は「香具山の麓に白い衣がたなびいている、どうやら夏が来たらしい」と、白い清涼感を装った夏を萬葉人の心に印象づけました。
 この「白」という清潔感の代表である色から連想されたのか、女帝は、皇族の葬儀の慣習を潔く変更されます。それを伊藤先生はこのように仰っています。「遺言によって、日本の帝王の火葬は持統女帝の葬儀から始まった(日本人の火葬の最初は、文武四年の僧道昭とされている)。自分のからだが熱く燃えることもいとわず、さっと焼いて一瞬のうちに白骨と化す火葬に思いを寄せる人物は、気丈であると同時に、いたく清潔でもあったのではないか。二年三か月にもわたる夫天武天皇の、しかばねを保存したままの古来の葬儀を行った持統は、愛する夫の屍に「蛆集うじたかれころろく」(『古事記』上巻)のを目にしたに違いない。彼女が清潔な火葬に思いを寄せたのは、その時であったかもしれない」。
 けれど、持統天皇の「進取」の成果がもっとも表れたのは「萬葉集」を発案されたことでしょう。ゆくゆくは皇位につき、また皇族の一員として国を支えて行く皇子皇女たちに、人間が生きることに伴う心の働かせ方や日本人の生活ぶりを「歌」によって教育しようとされました。
 このように、持統天皇は現代にまで道をつけるいくつもの功績を遺されていますが、さて、今回取り上げた歌をもう一度読んでみましょう。

 春過ぎて 夏きたるらし 白栲しろたへの
  衣干したり あめの香具山

 この歌は子どもの心にも真っすぐ話しかけてくる朗らかな歌ですが、伊藤先生は、夏到来に感動する女帝の歌は、「早咲きの狂い咲きの感がある」と仰っています。さらに、律令国家が形づくられていく中で、大陸からの画期的な文化の浸透の影響があるとしても、それを超えて「持統御製の個性は照りまさるばかりである」と仰っています。
 夫に先立たれ、たった一人の我が子に先立たれ、それでも遺されたまつりごとを次々と遂行し、自らも後世に新風を開いて皇統を守った持統天皇の人生は、一刻一刻、自己の歩む道を吟味する余裕などなく、為すべき判断に迫られていたことでしょう。それはひたすら国母として、母として、亡き夫を慕う妻として、「守る」ことを生き甲斐に乗り切った、そういう人生だったのではないでしょうか。そう思うと、この歌には、暑い夏も、心に白栲しろたへをなびかせることで、清涼な夏が生まれて来る、そのように聞こえ、歌に学ぶ知恵を女帝に伝えられた気がして快くなります。女帝は、現代風に言えば、目の前にたとえどんな絶望や悲嘆で真っ黒なカードが出ても、次々と困難を消していくかのように、健やかさや清浄という真っ白なカードに裏返してみせられた……伊藤先生が「早咲きの狂い咲き」と仰る言葉に深くうなずき、目の前に炎天下に咲く大輪の白い花が現れたようでした。
 なお、百人一首には、「夏来るらし」を「夏来にけらし」と、「衣干したり」を「衣干すてふ」と、詠み替えられています。中世以降の和歌は、このような婉曲表現を好む詠み方が広まっていたようですが、ここに述べてきたように、せっかくの持統天皇の気概と清潔なイメージが台無しになって、そのまま広く知れ渡っていることを残念に思います。
(了)  
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