久保田 美穂 <感想> 「経験という言葉」

久保田 美穂
 令和五年(二〇二三)六月十五日
 <小林秀雄と人生を読む夕べ>
 「読書週間」
  (「小林秀雄全作品」第21集所収)
 「経験という言葉」

 昭和四十年代、第二次世界大戦の痛手から日本が立ち直り、人々は様々な国へ旅行に出かけ、見聞したことを「経験」として語る風潮が世間にあふれていました。
 そのような折り、小林秀雄先生は、「経験というものは数の問題ではないのだ。正岡子規はひとつところに何年も寝ていた、あれが経験というものなのだ」と池田雅延塾頭に話されたそうです。
 ひとつところでひとつのことに向き合い、時間をかけて知識や思索が熟すのを待つ、それこそが「経験」なのだ、と。

 正岡子規は、晩年、結核菌が脊髄を冒し脊椎カリエスを発症し、床で過ごす日々が多くなります。六尺という床のなかで、ひたすら短歌、俳句と「身交ふ」ことを最後まで続けました。

 この機会を得て、正岡子規の歌を読んでみようと思い、明治三十年から三十五年までの歌をながめてみました。すこやかでユーモアを交えた歌があり、自然を織り込んだ、慈しみに充ちた歌がありました。そうして、病を痛む歌には、正岡子規の潔癖さがあらわれていました。

 明治三十五年、正岡子規が亡くなった年に詠んだ歌があります。
 
  紅梅の下に土筆など植ゑたる盆栽一つ、左千夫の贈り来しをながめて、
  朝な夕なに作れりし歌の中に
   まくらべに 友なき時は 鉢植えの 梅に向ひて ひとり伏し居り
                               
 この年の九月、正岡子規は亡くなりました。
 ひとり伏し居り……さいごの言葉は祈りの姿のように思えます。

 言葉を玩味することなく、とおり一遍にとらえたまま生活していますと、小林秀雄先生の指摘にハッとするのです。
 この講座から、そのような言葉の発見も、いただいています。

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