●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)六月十五日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「読書週間」
(「小林秀雄全作品」第21集所収)
「経験という言葉」
令和五年六月十五日には、「読書週間」のご講義を賜り有難うございました。
今から七十年も前の昭和二九年に発表された「読書週間」で、小林先生はもう「本が多すぎる」と洞見されています。先生は昭和一一年の末頃から「創元社」の編集顧問をされていましたが、その経験から出版社は新刊書を出し続けなければならないのだという苦しい業態事情にも言及され、「本が多すぎる」という状況はそういう業態のやむを得ざる必然とも言われていますが、池田塾頭はご自身が新潮社の編集者として五十年間、出版界に身を置かれていた立場から、一冊の本の成り立ちについても詳らかに語ってくださいました。
昭和四十年代までの活版印刷の時代、ということは何から何まで手仕事であった時代は、原稿が著者から編集者に渡され、その原稿が本となって書店に並ぶまで、新潮社の場合は一点あたり四か月という時間がかけられていました。
その間に原稿は印刷所に渡って校正刷となり、校正刷は校正者と編集者によって丹念に閲読され、その校正刷が著者に届けられて綿密な著者校正が施され、と、作品は著者と出版社の間を往復することによって一段と密度をあげ、熟成していきました。
ところが、昭和五十年代の幕開きに印刷業界にもコンピューターが導入され、これによって本造りの工程がコンピューターの組版能力を基準として割り出されるようになったため、ある一定の時間がかかることによって保証されていた作品の密度と熟成がほとんど期待できなくなってしまったと池田塾頭は嘆かれ、したがって小林先生の言われる「本が多すぎる」も、もはや先生の時代の「本が多すぎる」どころではなくなっています、現代の読者はそのことまでもよく心得て先生の「読書週間」を読む必要があります、そういう意味では先生の「読書週間」は、今こそ読まれるべき作品ですと言われました。
そのうえで、池田塾頭は、しかし自分は今日のコンピューター製版を否定したり敵視したりするものではない、なぜなら日本で出版されたコンピューター製版書籍の第一号は、池田塾頭も編集スタッフのひとりであった「新潮日本古典集成」の『源氏物語(一)』であり、この「新潮日本古典集成」の第一回配本『源氏物語(一)』が昭和五十一年六月に刊行されるまでの約五年間、池田塾頭たちは大日本印刷のコンピューター技師たちと日本で初めてのコンピューター製版の実用化に向けて水面下で知恵を絞り続けられ、今日、読書界でも国文学界でも高く評価されている「新潮日本古典集成」の傍注方式は、このコンピューター製版の実用化に成功したからこそ可能となったもので、印刷業界が旧来の活版印刷のままであったなら「新潮日本古典集成」は世に出ていなかったと話されました。
二十数年前になりますが、私は日本の古典を読みたいと思い、古文が読めない自分でも読めそうな本をと探していた時、手にした「新潮日本古典集成」の傍注が心強く、これなら原文のままで読めるのではないかと思われ、「平家物語」を皮切りに「源氏物語」「徒然草」等を読み始めました。日本の古典にとにもかくにも触れられたのがとても有難く、私は「新潮日本古典集成」の多大な恩恵に浴した一人です。それだけに、池田塾頭がお話し下さったコンピューター製版による新しい本の創出のドラマは大変興味深く、感銘しました。
千頭 敏史 <感想> 「読書週間」
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