千頭 敏史 <感想> 『萬葉』秀歌百首

●千頭 敏史
 令和五年(二〇二三)六月二十二日
 <新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
  行き行きて 逢はぬいもゆゑ ひさかたの 
    あめつゆしもに 濡れにけるかも
       (人麻呂歌集/巻第十一 せいじゅつしんしょ 2395番歌)                     
  燈火ともしびの 影にかがよふ うつせみの 
    いもまひし 面影に見ゆ 
       (作者未詳/巻第十一 寄物陳思 2642番歌)

 令和五年六月二十二日には「新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首」のご講義を賜りありがとうございました。
 今回の鑑賞歌の2395番歌は、「物に寄せずに直接思いを述べた歌」を意味する「正述心緒」に配列され、2642番歌は、「物に寄せて思いを陳べる歌」を意味する「寄物陳思」に配列されています。「萬葉集」の歌はそういう「萬葉」編者の意図を汲み、それぞれの歌の配列形態に即して読むことによってこそ正しく鑑賞できるのです、と、池田塾頭は契沖の教えと、その教えを踏襲された「新潮萬葉」の先生方の読み方、味わい方に則ってお話し下さいました。
 そして、巻第十一の「正述心緒」、「寄物陳思」という表現手法は、柿本人麻呂の考案らしいという「新潮萬葉」の先生方の見解を紹介され、その観点から、人麻呂は「萬葉集」の一大歌人に留まらず、歌に新しい広がりをもたらしたいわばプロデューサーでありディレクターでもあったようだと言われ、萬葉歌の世界で果たした人麻呂の大きな役割の一面を浮き彫りにされました。

 2642番歌については、伊藤博先生の、「きわめて印象鮮明な歌である。事象だけを述べた歌の強みである」、「燈火の中にいる女の姿は浮き立つがごとくである」(集英社刊『萬葉集釋注 六』、285頁)という釋文を紹介され、今回も伊藤先生の鑑賞力に絶大な賛同と敬意を示されました。そのうえで、「女のさような情景を、美しいものとして何回も見た男の詠であることはまちがいない」という伊藤先生の釋文については、池田塾頭ご自身の直観から、この燈火の中にいる女の姿という情景は、「初めて会ったころ、ふと目交まなかいいに立ってはっとさせられた笑顔の美しさ」とも読み取れますと、ご自身の読みを率直に伝えられました。そして、塾生たちに、独善に走ることは十分警戒しながらも自分の直観的な読みも大切にする、そうすることによって自分もその場にいるかのような臨場感が得られると勧められました。私もこの歌を読み直してみて、詠み込まれた燈火の中の女の笑顔は、作者の繰り返しの経験によって上書きされないただ一度の経験であるからこそこの歌の魅力の源泉を成しているように思われました。

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