大江 公樹 <感想> 第三十章 (上)天武天皇の哀しみ

●大江 公樹
 令和五年(二〇二三)七月六日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む>
 第三十章  天武天皇の哀しみ

 第三十章前半では、国語表記のあり方を模索する日本人の経験が、二十八、九章に引き続き改めて述べられてゐます。しかし同じ主題が述べられてゐるといふやうには全く感じられません。寧ろ一文一文が新鮮で、日本語を守らうとする天武天皇、阿礼、安万侶の切実な思ひが浮かびあがつてくるやうです。「彼(安万侶)が、直ちに、漢字による國語表記の、未だ誰も手がけなかつた、大規模な實驗に躍り込んだのも、漢字を使つてでも、日本の文章が書きたいといふ、言はば、火を附けられゝば、直ぐにでも燃えあがるやうな、ひそかな想ひを、内心抱いてゐたが爲であらう」といふ部分を読みますと、漢語と日本語の狭間で苦しむ中で、己が母語の感覚を何とかして貫きたいと考へる古代日本人の気持ちが、安万侶に象徴されてゐるかのやうに感じました。
 ご講義の中で、『古事記』編纂の政治的な目的はあくまで二次的なものであり、そこには古語を残さうといふ強い思ひがあつた、さう宣長は考へてゐた、といふお話がありました。現代におけるものの見方に染まつてゐると、思ひ至らない考へだと思ひます。先人がどういふ思ひで『古事記』を残したのか、小林先生、宣長のやうに、先人に寄り添ひ考へて参りたいです。

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