金森 いず美 <感想> 第三十章 (上) 天武天皇の哀しみ 

●金森 いず美
 令和五年(二〇二三)七月六日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む>
 第三十章  天武天皇の哀しみ

「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、第三十章を前半と後半に分け、七月六日に「天武天皇の哀しみ」と題して前半を読みました。歴史と言葉の姿をしっかり掴みたいという願いが、私の心の中に次第に強まっていきます。七月から八月、ふた月をかけて読む第三十章、池田塾頭がお話された、「歴史とは思い出である」という小林先生の言葉を噛みしめながら、この章で語られる物語を、耳と身体で存分に味わいたいと思います。

「そのかみ世のならひとして、万ノ事を漢文に書キ伝ふとては、其ノ度ごとに、漢文章に牽れて、本の語は漸クに違ひもてゆく故に、如此ては後遂に、古語はひたぶるに滅はてなむ物ぞと、かしこく所思看し哀みたまへるなり」(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.337)
 宣長の言葉を読み重ねるうちに、天武天皇の御心に寄り添う宣長の「思い出」が、滲むように私の心に染み入り、天武天皇が目の前に立っていらっしゃって、その厳かな表情までもが感じられるような気持ちになりました。その姿は、史家によって明かされた「歴史上の人物」ではなく、国を一身に背負う強さ、大和言葉の命を捉える繊細さ、伝統の危機を察知する鋭さを、溢れんばかりその身体に湛えられている天武天皇の生きた姿です。宣長の「思い出」を辿って私のなかに直に呼び出された天武天皇の姿は、亡くなった父の姿が心に浮かんでくるのに似て、親しさと厳しさ、憂いや激しさもその声に滲ませて、すぐそばで語りかけているように感じられます。

 史実を語る書物から歴史を学んできたこれまでの私に、小林先生は「思い出」を繋いで直に歴史に入っていくその仕方を教えてくださいます。同じ時を生きた天武天皇、阿礼、安万侶の三人の「まことに幸運な廻り合い」、そして、「自国の言葉の伝統的な姿」を残すために結ばれた三人の覚悟を、この三十章前半で感じることができました。豊かな「思い出」を湛えた川が互いに合わさり、大きな大きな海になっていきます。「古事記」誕生の壮大なドラマ、そして、古語の生きた姿を、「歴史とは思い出である」という小林先生の言葉とともに、第三十章後半でも深く味わって読んでいきたいと思います。

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