千頭 敏史 <感想> 「還 暦」「科学的な見方、考え方という現代の迷信」

●千頭 敏史
 令和五年(二〇二三)七月二十日
 <小林秀雄と人生を読む夕べ>
「還 暦」
(「小林秀雄全作品」第24集所収)
「科学的な見方、考え方という現代の迷信」

 令和五年七月二十日には、「還暦」、「科学的な見方、考え方という現代の迷信」のご講義を賜りありがとうございました。
「還暦」では、人間にとって年齢とは何か、年齢の意味は何かが問われていると説き起こされました。
天寿という言葉について小林先生は、「生命の経験という一種異様な経験には、まことにぴったりとする言葉と皆思った、そういう事だったのだろう」と、天寿という言葉を発明した古人に思いを馳せて、「命とは、これを完了するものだ。年齢とは、これに進んで応和しようとしなければ、納得のいかぬ実在である」と、年齢という問題の端緒を示されます。  
 本年四月二十日の講座「年齢」では、孔子の「耳順」をテーマの中心に据えられました。
「還暦」でも、「耳順」を面白い言葉で、「どうにでも解されようが、人間円熟の或る形式だと考えたのは間違いない」とされ、また、長寿や延寿や天寿の「寿という言葉も、経験による円熟という意味に使われて来たに相違ない」と言われ、円熟という言葉に思いを致されます。そこで、「円熟するには絶対に忍耐が要る」として、忍耐とは「時間というものの扱い方」であり、「忍耐とは、省みて時の絶対的な歩みに敬意を持つ事だ。円熟とは、これに寄せる信頼である」と言われ、「円熟」と「忍耐」とが、人の一生において不可分にあると示されます。
 池田塾頭の肉声を耳にしながら「還暦」のこの箇所を読んでいて、現代では軽んじられる「円熟」、「忍耐」という言葉が、「人の一生という含蓄のある言葉」の土台を支えているのが、しかと感じられました。
 人生如何に生くべきかを生涯のテーマとされた小林先生は、ご自身の一生を通して「忍耐」と「円熟」を実践し、これを体現されたのだと思います。

 続いて、「科学的な見方、考え方という現代の迷信」です。
小林先生は、「科学的な見方」に限らず、凡そ「物の見方」というものは物を見えなくすると、これを峻拒されていたと池田塾頭は冒頭に述べられます。
 昭和二十四年、四十七歳で発表された「私の人生観」の中で、「科学とは極めて厳格に構成された学問であり、仮説と検証との間を非常な忍耐力をもって、往ったり来たりする勤労であって、今日の文化人が何かにつけて口にしたがる科学的な物の見方とか考え方とかいうものとは関係がない」と、「科学」と「科学的な物の見方」を峻別されていました。
「還暦」では、「科学は合理的な仕事だが、科学の口真似による知性の自負となれば、非合理的な心理事実に属するのであり、これを趣味の一形式と呼んで少しも差し支えない」、そして、「この広く行渉いきわたった趣味が、現代の知識人を、本当は無意識な人間に仕立て上げ」ており、「彼等の、本質的な意味で反省を欠いた、又その為に多忙な意識は、言わば見掛けだけのものだ」と糾弾され、そこには「能率的な生き方という一つの道が開かれているだけだ」と読者に警鐘を鳴らされます。
「還暦」が発表されてから六十年が経過した現在、科学的な物の見方は一層蔓延はびこり、能率の追求に血眼ちまなことなって、科学の成果に遅れまいと右往左往しているように思われます。

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