●小島 由紀子
令和五年(二〇二三)一月二十六日
<新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
かはづ鳴く 神なび川に 影見えて
今か咲くらむ 山吹の花
(厚見王 巻第八 1435番歌)
夏の野の 茂みに咲ける 姫百合の
知らえぬ恋は 苦しきものぞ
(大伴坂上郎女 巻第八 1500番歌)
今回の一首目は、巻第八「春雑歌」の歌で、四月から五月にかけて、黄色の小さな花が枝一面に咲く「山吹の花」が詠み込まれている。
かはづ鳴く 神なび川に 影見えて 今か咲くらむ 山吹の花
――河鹿の鳴く神なび川に、姿を映して今ごろは咲いているであろうか、岸の山吹の花は。
「神なび川」については、新潮日本古典集成『萬葉集 二』の註釈に、「神なびの地を流れる川の意。飛鳥川のこととも龍田川のことともいう」とあるが、池田塾頭はこれについて詳しく語ってくださった。
「『神なび川』とは、ある一つの川を示す固有名詞ではありません。『神なび』とは『神霊がいますところ』という意味ですから、『神なび川』は水が澄み、厳かな気配をたたえた、自ずと心が清らかになるような川のことです。そのイメージとともに、『神なび川』という言葉の響きも味わってみてください」
声に出して読んでみると、「神なび川(かんなびがわ)」という音から、澄みやかで奥行きのある響きが感じられ、「かはづ鳴く 神なび川に 影見えて」の各句冒頭「か」の音も、より引き立つように聞こえてきた。そして、「今か咲くらむ」の疑問の係助詞「か」から、「今ごろは咲いているであろうか」と、思いを馳せている作者の横顔が浮かんできて、ここで初めて、実際には作者は山吹の花を見ていないのだ、という事実を認識した気がした。
伊藤博先生は、これについて、『萬葉集釋注 四』(集英社)で次のように書かれている。
「清流に山吹の黄色い花を配して、その景を想像した歌。…神なび川の春の時節以前に目にした山吹の様子を背景に据えているのであろう。作者の心の中では、古色と新色とが織り重なっているはずである」
池田塾頭は、この箇所をお読みになると、その情景を描き出していかれた。
「作者は、この時、山吹の花を目にしていません。けれど、かつて見たあの山吹の花が、時が巡り、今ごろまた咲いているだろうかと想像することで、過去と現在の両方の花を目の当たりにしています。過去にたしかに咲いていた花のイメージが、新たに咲き始めた花のイメージを視覚的に呼び覚まし、それぞれの黄色い花が作者の心の中で鮮やかに織り重なっているのです」
池田塾頭は、さらに、伊藤博先生が、初句の「かはづ鳴く」も実景ではないと示唆されていることを教えてくださった。
「伊藤先生は、初句の『かはづ鳴く』は夏の情景で、結句の『山吹の花』は春の情景なので、季節的にずれがあると指摘されています」
この解説を聞く前は、「かはづ」(青蛙)が「河鹿」と訳されていたので、あの秋の雄鹿に似た、竹笛の音のような蛙の声が、川辺に鳴り響く様子を想像していた。だが、たしかに「河鹿」は夏に繁殖期を迎えるので、春先にしきりに鳴くわけはない。
「つまり、伊藤先生は、『かはづ鳴く』は実際に起きていることではなく、清流を好む『かはづ』の声が辺りに鳴り響くほど、清らかな『神なび川』であることを印象づけるために、枕詞的に用いたのであろうと仰っているのです」
この池田塾頭のお話を聞いて、実際には「かはづの声」も「神なび川」も「山吹の花」もそこには無いのに、眼前に、澄み切った川面と、そこにたくさんの小さな黄色い花を映して咲く山吹を、鮮やかに描き出してくれる、この歌の力に驚いた。その黄色の色は、現実よりも仮想空間よりもリアルに輝くように感じられ、この歌の作者にたいへん興味が湧いた。
だが、作者の厚見王は、『続日本紀』によると、少納言、従五位上であったようだが、家系や経歴は未詳で、「萬葉集」にもこの歌を含めてたった三首しか残していないという。それでも、伊藤博先生はそのうちの一首を「萬葉百首」に撰ばれ、「印象が鮮明で、調子もなめらかなので、平安朝の歌人に愛誦され、本歌として多く採られた」と仰って、この歌を本歌とした平安朝の歌を四首も紹介されている。
今もかも 咲きにほふらむ 橘の 小島の崎の 山吹の花
(『古今集』春歌下、2 一二一)
逢坂の 関の清水に かげ見えて 今や引くらむ 望月の駒
(『拾遺集』秋、3 一七〇)
春ふかみ 神なび川に かげ見えて うつろひにけり 山吹の花
(『金葉集』春部、1 七八)
かはづ鳴く 神なび川に 咲く花の いはぬ色をも 人のとへかし
(『新勅撰集』恋歌一、11 六九一)
「いずれも厚見王の歌から一句または二句を引き、そのイメージを背景にして、新たな世界を描き出しています。これらの歌を読み、あらためて厚見王の歌に立ち返ると、歌の姿も歌の生気も際立っていて、溌剌とした存在感があることを実感します。後の時代の歌人たちも、この萬葉歌人の大先輩の歌に、どれほど強く心を動かす力があるかを実感し、驚いていたことでしょう」
池田塾頭のこのお話を聞き、ご講義後に調べてみると、この厚見王の歌は、平安時代の「新撰和歌集」(紀貫之撰)や「和漢朗詠集」(藤原公任撰)、鎌倉時代の「古来風体抄」(藤原俊成撰)や「新古今和歌集」(藤原定家ほか撰)にも収められているという。
「優れた歌は、作者の手を離れても、歌そのものの生気や活気が、後の人々の心に宿り、後世にもずっと生き続けていきます」
撰者の大歌人たちの名前を見て、池田塾頭のこのお言葉が蘇り、また一人深く頷くこととなった。
次の二首目は、一首目と同じく巻第八の夏の歌であったが、部立は「夏雑歌」から「夏相聞」へと移り、「姫百合」の花に思いを託した恋の歌であった。
夏の野の 茂みに咲ける 姫百合の 知らえぬ恋は 苦しきものぞ
――夏の野の草むらにひっそり咲いている姫百合のように、あの人に知ってもらえない恋は何とも苦しいものだ。
この歌の上三句を読んだ瞬間、かつて夏山を歩き、姫百合の花を接写レンズで撮った時のことが思い出された。植物図鑑で見るより、朱赤の花は濃くも澄みやかで、背丈も低く、花弁も小ぶりで、控えめな印象を受けた。
伊藤博先生は、この上三句について、次のように解説されている。
「上三句の清新な序詞によって輝く歌である。濃緑の夏の草むらに咲く一点朱色の可憐な姫百合は、片恋に沈む女そのものの姿をも象徴しているようだ」
これを受け、池田塾頭はまず「序詞」の技法について、「萬葉集」巻第十一の2802番歌と類似歌の二首を挙げて説明してくださった。(※下線部が「序詞」)
① 思へども 思ひもかねつ あしひきの 山鳥の尾の 長きこの夜を
或る本の歌に曰く
② あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む
②の歌は、今では柿本人麻呂の名歌として非常に有名だが、奈良時代の「萬葉集」においては、①も②も作者不明で、②は①の異伝として「或る本」に載っていたため書き添えられたという。だが、次第に②の歌の評価が高まり、人麻呂の作とされて、平安時代には「拾遺和歌集」に、鎌倉時代には藤原定家によって「百人一首」に撰ばれ、特に定家は夜長の独り寝の侘しさを詠んだこの歌をたいへん好んでいたという。
池田塾頭は、①と②の序詞を指摘され(下線部/それぞれ直後の「長き」「長々し」を導く)、②の歌が「序詞」の優れた代表例となった経緯を次のように語ってくださった。
「日本の古代歌謡には、まず目の前の景色や風物をしっかりと見て、具体的に提示し、それによって自分の心がどう動いたかを詠い上げていくという手法があります。萬葉人には、『山鳥の尾は長い』という共通認識があったので、『あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の』(山鳥の尾の、その垂れ下がった長い尾のように)と聞くと、『長々し夜を ひとりかも寝む』(何とも長たらしい夜なのに、私は独りのまま過すことになるのか)という、作者の思いに、なるほどたしかに独り寝の夜は、山鳥の尾のように長く辛いものだと共感したことでしょう。この序詞の着想の見事さ、独創性によって、この歌は人麻呂の作とされ有名になりました。枕詞は使い方に制約がありますが、序詞は、視覚や聴覚を働かせて、二句、三句と連ね、独自の美の世界を作り上げながら、自分の思いを伝えていくということが可能ですから、まさに歌人の腕の見せどころとなっています」
このお話を聞いて、「姫百合」の歌についての、「上三句は序。次の『知らえぬ』を起す。姫百合が夏草の深い茂みにおおわれて人に気づかれないので言う」という註釈(新潮日本古典集成「萬葉集 二」)と、伊藤博先生の「上三句の清新な序詞によって輝く歌である」というお言葉が、やっと腑に落ちてきたような気がした。そして、作者の大伴坂上郎女が「知らえぬ恋」に苦しみ、目を伏せて俯いているような姿が浮かんできた。
作者の大伴坂上郎女は、大伴旅人の異母妹で、「萬葉集」の女性歌人の中では、最も多い八十三首もの名歌を残し、伊藤博先生も「額田王と並ぶ万葉女流歌人」と讃えている。恋多き女性であったようで、最初は穂積皇子(天武天皇の第五皇子)と結婚し、その没後は藤原麻呂(藤原不比等の四男)と恋仲となり、後に異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となった。娘の坂上大嬢が大伴家持の妻となると、家持とも和歌を贈り合ったという。
だが、この「姫百合」の歌は、伊藤博先生も「いつ頃の誰に対する歌であるかはわからない」と仰り、弟子にあたる渡辺護氏の考察を引かれている。それによると、「知らえぬ恋」という表現には、「世間の人に知られない秘めた恋」という意味と、「相手に知られない“片恋”」という二つの意味があり、この歌ではその両方と解釈され、それによって歌の魅力も倍加しているという。
これについて、池田塾頭は次のように説明してくださった。
「女性はある男性に恋をしていますが、その思いを世間に知られないようにじっと心に秘める苦しさと、その男性に思いを知ってもらえない苦しさを抱えています。そんな自分を、夏の野の草むらで人知れずひっそりと咲く姫百合に託して詠んだ歌ですが、結句の『苦しきものぞ』にも注目してみましょう」
池田塾頭は、そう仰ると、この歌の第五句の訓みとしては「苦しきものぞ」のほかに「苦しきものを」もあります、これは萬葉仮名で「苦物曾」となっている写本に拠ったか、「苦物乎」となっている写本に拠ったかのちがいなのですが、「新潮萬葉」の先生方は「苦物曾」が「萬葉集」の原形に近いと見て「苦しきものぞ」と訓まれています、しかし契沖は「萬葉代匠記」で「苦物乎」を採って「クルシキモノヲ」と訓み、「乎」は別の写本では「曾」となっているという旨を小字で注記しています、と言われた。
この契沖の「苦しきものを」という訓みは、今ではほとんど知られていないが、池田塾頭はこの最後の一文字についてさらに迫っていかれた。
「最後が『ぞ』か『を』か、『ぞ』は一文を強く言いきるため文末に用いられる係助詞、『を』は文末にあって詠嘆の気持ちを表す間投助詞ですが、この最後のたった一文字で歌の印象が全く変わってくると思いませんか? 『苦しきものぞ』は、『とても苦しいものなの』と語気強く言いきってしまっていますから、こちらも『そうですか、それはお気の毒に…』と言うしかないような気持ちになってきます。ところが、『苦しきものを』とあると、『この恋心、苦しいの、逃れようとしても逃れられないの』という困窮の余韻が醸し出されているため、こちらも一緒になって恋の苦しさをかみしめる思いがします、だから私としては契沖の『苦しきものを』の方に惹かれています」
たしかに「苦しきものを」とあった方が、語感も消え入るような儚さが醸され、苦しさだけでなく、切なさ、哀しさ、やるせなさ、思わず湧いてくる相手への恨み、それでもやはり恋しくてならないといった気持ちも感じられてくる。
「皆さんも、今回のように萬葉仮名の表記が二種以上あり、それに伴って訓み方も二種以上ある場合は、自分の感性を自由に働かせて、萬葉歌人との交感を楽しんでみてください。時代は違っても、萬葉歌人と同じ人間として、自分だったら恋心をどう表そうかと思いを巡らせ、自分自身の心の波立ちを味わってみてください」
「萬葉歌人との交感」という池田塾頭のお声が耳の中に響き続けながらも、次のお言葉の時は、池田塾頭のお声に、小林先生と伊藤博先生のお声も重なっているように聞こえた。
「自分の読み方で読み、自分自身で人間はどうあるべきか、ということを見つけ、そのあり方に沿って生きようとする、それが古典を読む醍醐味です」
その大事と難しさを実感しながらも、たった三十一文字で人生の糧となることをさまざまに教えてくれる歌、それを四千五百首も集めた「萬葉集」、そしてその魅力と肝要を存分に教えてくださる池田塾頭のご講義に、まさに有り難いとはこのことと、あらためて感じるばかりであった。
小島 由紀子 <感想> 『萬葉』秀歌百首
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