事務局ごよみ(10)
「萬葉の黎明」と天武天皇の哀しみ
――私塾レコダ l’ecoda「『萬葉』秀歌百首」へのお誘い
橋岡 千代
前々回の「事務局ごよみ」(8)では、『萬葉集』巻第一の巻頭にある第二十一代雄略天皇の春の国見の歌を伊藤博先生の『萬葉集釋註 一』(集英社刊)に拠ってご紹介しました。「萬葉の時代」は、天智天皇、天武天皇の父である第三十四代舒明天皇の御代から始まると言われていますが、ここに第二十一代雄略天皇の御製歌が置かれているのは、「萬葉の時代」を準備した歴代天皇への敬意であり、中でも雄略天皇は、雄武の天皇として聞こえ、歌によって物事を支配した王者としても著名な天皇であったからだそうです。 『古事記』の「下つ巻」は仁徳朝から推古朝で、一般に馴染みのある天皇の御名が並びます。この時期に神人分離の認識や大陸との国交、仏教統制機関の設置など中央集権国家の意識が盛り上がりますが、伊藤先生は「抒情詩の個性は、集団を構成する人間が国家の確立による統一的な秩序や機構によって制約をうけ、一定の義務や権利を与えられて矛盾や喜びを感じるときに形成されてくるといわれる」と書かれています。そしてその抒情詩は、『古事記』『日本書紀』に収められている古代歌謡や和歌が、推古朝を継ぐ舒明朝から急に増えだし、「萬葉の黎明」を迎えるとおっしゃっていますが、『萬葉集』の第二番歌に来る舒明天皇の国見歌は、この「黎明」を身をもって証された歌であり、古代の雄略天皇の御製歌を戴いた直後に実質的な冒頭歌として置かれています。 天皇、香具山に登りて国見したまふ時の御製歌 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は けぶり立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は 伊藤先生の口語訳は次のように書かれています。 ――大和には群がる山々があるけれども、中でもとりわけ神々しい天の香具山、この山の頂に出で立って国見をすると、国原にはけぶりが盛んに立ちのぼっている。海原にはかまめが盛んに飛び立っている。ああ、よい国だ。蜻蛉島大和の国は。…… 池田雅延塾頭は、「『萬葉』秀歌百首」の講義でいつもまず取り上げる歌を何度か読み上げられますが、この歌のときはとりわけ聴いているうちに古代の香具山に連れていかれ、そこの住人になったような心地がしました。たとえば「けぶり」という言葉は、平原から水蒸気となって立ちのぼる草のにおいや、家々の夕餉の炊煙などを思い起させ、嗅覚を刺激します。「国原はけぶり立ち立つ」「海原はかまめ立ち立つ」というリズミカルな対句を聴くと、瑞々しい土地の映像が広がり気持ちも豊かになります。それを「うまし国ぞ蜻蛉島大和の国は」と賛美される天皇の喜びは、大和の人々や自然へも移ってすべてに親和が生まれるかのようです。 ――緊張した構図、詩想の豊かさ、形象力のたくましさ、躍動する韻律、高らかな感慨等々、どこから見ても、一首には萬葉の暁鐘にふさわしい高鳴りがこめられている。それは、この歌以前の記紀歌謡の国見歌などには「大和には群山あれど、とりよろふ天の香具山」のような、天皇の立つ環境の優位を示す表現がない点に思いを致すことによってもたやすく理解されよう。日本の詩の原郷ヤマトの躍動を鮮明に造型した一首によって、萬葉の朝が輝いたというべきで、このことは、日本最古の抒情歌集『萬葉集』の本質にとってすこぶる象徴的なことである。…… この伊藤先生の言葉を受けて池田塾頭は、「萬葉集を読むことの楽しさは、萬葉歌のリズムに慣れ、古の大詩人たちが作り出した言葉の世界の映像、音響を全身で感じることです」とおっしゃいます。この「緊張した構図、詩想の豊かさ、形象力のたくましさ、躍動する韻律、高らかな感慨」といった萬葉の抒情歌のリズムには、まだ文字という書き言葉が日常のものにはなっていなかった萬葉の人々の、「声にのせる言葉がどれほど肉体化していたか」をまざまざと全身で感じ取れるような気がします。 先日の「小林秀雄『本居宣長』を読む(第三十章)」の講義で、池田塾頭は「古の実のありさま」を遺そうと『古事記』をつくり始めたときの天武天皇の哀しみについて話されました。その「哀しみ」とは、中国から渡来した漢字漢文に習熟していっても、それを借用して自国の言葉を書き記そうとすれば純粋には再現されないどころか自国の言葉が漢字漢文に呑まれて消滅してしまうという塞がった実情への危機感なのですが、裏を返すと、そこまで自国語に対する危機感を募らせるほどに天皇は「萬葉の黎明」期に父親の舒明天皇をはじめとする優れた歌人たちの豊かな抒情詩の中で育ち、長じてからも何事も歌の力をよりどころにしていたことが考えられるのではないでしょうか。 こうして『萬葉集』の歌が朗々と謡われていたころの歌人の声や、私たちの国にはなぜ書き言葉が発明されなかったのかに思いを馳せながら「萬葉集」を読むと、まだまだ多くの歌の力が見えてくるような気がします。
(了)