金森 いず美 <感想> 第三十章 (下)古言のふり

●金森 いず美 
 令和五年(二〇二三)八月三日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む>
 第三十章  古言のふり

 八月の「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、「古言のふり」と題して第三十章後半を読みました。ここまで、「言葉とは何か」という問いに、自分の中の小さな答えを積み重ね、読み進めてきました。第三十章後半では、「古言のふり」について、小林先生が初めて語られます。「ふり」という語の独特な響きに、未だ知らない深い言葉の世界が広がっているような思いがして、池田塾頭はどのようなお話をされるのだろうかと、とても待ち遠しく、ご講義の日を迎えました。
 宣長は、誰も読み解くことのできなかった「古事記」にたった一人で身交むかい、おおのやす稗田ひえだの阿礼あれの口誦の、その奥底に鼓動する古人の心に直に飛び込みます。

  「なべての地を阿礼が語と定めて、その代のこゝろばへをもてヨムべきなり」

「古事記伝」の「訓法ヨミザマの事」から引用された宣長の言葉には、阿礼と身交い、対話をして、古人の心に直に触れなければ、「古事記」は決して読むことができない、という宣長の強い思いが感じられます。宣長は、直感と想像の力を尽くして、文に現れる「調シラベ」から古人の「心ばへ」を感じ取り、安万侶とは逆向きに「古事記」をみ解いていきました。「証拠」の言うなりになるのではなく、自分自身の想像力、直感を最大限に働かせた宣長の創意工夫は、宣長にしか出来ない独自のものであり、宣長だからこそ、「古事記」を読むことができたのだと、あらためて思いを深くしました。

 小林先生はこの章で、宣長の学問の方法の、「ふり」の適例として、倭建命やまとたけるのみこと倭比売命やまとひめのみことに心中を打ち明ける場面を引用されます。宣長が倭建命の苦しみに心を重ね、波立つ倭建命の心情に寄り添うように訓を定めていく方法が、小林先生の語りによって細やかに解きほぐされます。ご講義では、池田塾頭が「この第三十章は象徴詩のように書かれています」とお話しされました。繰り返し読んでいると、小林先生の語る文章と倭建命の心が互いに響き合い、私の胸に迫り来るように感じられてきます。小林先生の創り出す言葉の連なりが、歌のように、すうっと真っ直ぐに入ってくるこの感覚を、しっかりと覚えておきたいと思いました。

 倭建命の「ふり」は、宣長の心に生き、小林先生の心から私の心へ届けられて、その鼓動が直に私の元へ伝わってきます。過去から繋がっている「生きた言霊ことだまの働き」が私の内側にも確かに息づいてるのだと感じます。古人の溢れる感情が、「ふり」として文の間に現れ、言霊の働きによって心に溶け込んでいくとき、後世に生きる人々の人生と歴史とが一体となります。小林先生が記された「歴史を知るとは、己れを知る事」という言葉が、この先に続く道を指し示しているように感じました。ここからの道も、想像の力をしっかりと働かせ、小林先生の創意工夫の文章に現れる「ふり」を感じながら、歴史という「思い出」に心を重ねていきたいと思います。

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