●千頭 敏史
令和五年(二〇二三)八月十七日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「人 形」(「小林秀雄全作品」第24集所収)
「常識という言葉」
令和五年八月十七日には「人形」、「常識という言葉」のご講義を賜り、有難うございました。
「人形」は小林先生に初めて出会った作品です。今まで幾度となく読み返しては、静かな感銘を受けてきました。
食堂車で老夫婦と同席した小林先生は、夫人が横抱きにしている大きな人形を目にして、戦争で死んだ息子に違いないと悟り、母親の深い悲しみを感じ取られます。この体験を読者に如何にしてしっかりと伝えられるか、小林先生は文章術を尽くして、小説として書かれていると池田塾頭は指摘され、「人形」を読む新たな視点を与えて下さいました。
なかでも、隣に来て坐る女子大学生に注目して、実際には他の席にいたかもしれない娘さんを、自分の居合わせたテーブルに座ってもらうことにしたと附言され、もしこの登場人物がいなかったとしたら、作品はどうなるであろうかと問いかけられます。
女子大学生の登場によって、作品に第三者の共感が取り込まれ、個人の感想を超えた珠玉の一篇に結晶するように感じられます。
四人掛けのテーブルに「私は一人で座っていたところに、老人夫婦が腰を下ろし」、次いで、残る一つの席に「大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て座った」とすれば、この食堂車は満席に近いはずです。しかし、この作品は静謐な空気に包まれています。周囲の喧騒は消えて、舞台の真ん中に置かれた一つのテーブルに坐る「五人」の静かな会食の場面が浮かび上がってくるようです。
事実のみを描くのではなく、伝えたいものをしっかりと読者に伝えるための作品造りという文章術について、池田塾頭は、小林先生の「本居宣長」の中で、「源氏物語」について言われる「空言の真」に通じると指摘されました。
生の経験をそのまま語るだけでは到底伝えることのできない、読者の心に永続する文章を構築する、これこそが「空言の真」であると思われます。
続いて、「常識という言葉」に這入って行かれ、「人形」の娘さんの挙動から「常識」という言葉本来のもつ重みについても考える基盤を与えてくださいました。
現在では軽く扱われがちな「常識」は、「人形」では、母親の悲しみを一目で感受して共有する心に発動しているように思われます。その娘さんの心とは、乱心であれ正気であれそれが何であろう、私はここに息子を抱いているという母親の原始の心に共鳴して、人形に素直に順応する心ではないでしょうか。