田中 純子  「小林秀雄『本居宣長』を読む――第七章下 俗中の真」  を読んで……

田中 純子
  『身交ふ』 令和五年八月号掲載
  「小林秀雄『本居宣長』を読む――第七章 俗中の真」
  を読んで……

初めての投稿です。塾との出会いは2017年秋、大阪に「小林秀雄に学ぶ塾(大阪塾)」が開講され、ご案内を頂いたことがきっかけです。
 私はいつも講義の予習をする時、取り上げられる小林秀雄さんの作品の朗読(音読)をするのですが、この『身交ふ』に掲載されている池田塾頭の「講座覚書」も声に出して読んでみることにしました。

「小林秀雄『本居宣長』を読む」の「第七章 俗中の真」の朗読を始めて間もなく、思い起こした言葉がありました。小林秀雄さんが何処かで言われた言葉だったでしょうか……。
「これは、と思った作家を知ろうとするなら、手紙に至るまで、全集を読め」
 まさに、ここで、塾頭はそのことを実行されているな、と思ったのです。

 そして塾頭は、この「講座覚書」の読者である私達に、ご自分の仕事とも作品とも言える「小林秀雄『本居宣長』を読む」をぜひ聴いてほしい、読んでほしいと、あたかも契沖が後輩の石橋新右衛門に「萬葉集」講義の聴講を熱心に勧めたのと同じように勧めて下さっているのだと受け止めました。
 今回の池田塾頭の「俗中の真」を読んで、契沖の、「萬葉集」についての「自己の創説を人に伝えたいとの願望」がまざまざと伝わって来、それは取りも直さず塾頭の熱い思いとして伝わってきたのです。
 以下、この「俗中の真」の要として私の心に届いたことをメモ書き風に記します。

○契沖の言う「俗中の真」とは、日常の実生活から掬い上げられる「人生の機微」であり、過去から現在へ、さらに未来へとその「機微」を伝える言葉の力・詩語の力である。

○契沖の石橋新右衛門への手紙の意力は、宣長が、契沖の「百人一首改観抄」「勢語臆断」(『伊勢物語』の注釈書)に感じた意力に通じる。

○世事とは日常生活そのものであり、なぜ人は「世事」を生きなければならないかを悟るには(「萬葉集」のような)「俗中の真」が要る。

○「『伊勢物語』の業平の歌、「つひにゆく 道とはかねて 聞しかど きのふけふとは 思はざりしを」は、「俗中の真」そのものである。

○宣長にとって「俗」なるものとは、現実とは何かということである。

☆小林秀雄さんにとっての関心や価値は、現実そのものより、その現実から生まれてくる言葉である。たとえば「美を求める心」に即して言えば、悲しみという「俗中の俗」が、歌や詩になって言葉の姿を取った時、「俗中の真」が立ち現れる。

 今回の「俗中の真」に関するメモは以上ですが、「講和覚書」最後の章の、契沖の遺言状には身が引き締まりました。
 塾に参加し始めた頃は、塾頭から「小林秀雄先生の作品は全て『如何に生くべきか』なのだ」と言われても釈然としないものがありました。けれども、参加し続けているうちに、どの作品にも通底しているであろう「小林秀雄さんの生き方・考え方」の片鱗を感じ取れる機会が増えてきました。そして、若い日に小林秀雄さんの「モネの睡蓮」の描写に、どうしてもオランジュリー美術館に行きたいと願い、それがなんとか叶ったことを思い出しています。
 昨年、大病で、文字通り死にかかりましたが、無事生還、元気な後期高齢者として再出発できました。これからもぼちぼちじっくり参加させていただきたいと思っています。よろしくお願い致します。

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