金森 いず美 <感想> 第三十一章 新井白石の読み方

金森 いず美
 令和五年(二〇二三)九月七日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第三十一章 新井白石の読み方

「小林秀雄『本居宣長』を読む」は九月に第三十一章を読みました。「さて、ここで話の方向を変えよう」と、小林先生は、宣長以前の歴史家に目を向けられます。「記紀」に記された神代の物語に、彼らはどのように相対したのか。この「問題」を取り巻く歴史家のありようを、小林先生は、宣長に照らして語られます。宣長は、近世の歴史家たちが持て余した神代の物語に、真っ直ぐに入っていきました。持って生まれた気質を傾け、古人の意のうちに入っていく宣長の姿が、この第三十一章で、はっきりと映し出されます。

「大日本史」が神武に始まっているのは、周知の事だが、幕府の命で「本朝通鑑」を修した林家にしても、やはり、先ず神代之巻は敬遠して、その正編を神武から始めざるを得なかった。(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.352)

 このような時世にあって、新井白石がただ一人、歴史家として、この問題を回避せず、正面からこれに取り組んだ(「古史通」「古史通惑問」) (同)

 小林先生の語りが、「神代之巻」を手にして、その「荒唐無稽な内容」に当惑する歴史家たちの姿を呼び起こします。その中にあって、新井白石がただ一人、この「問題」に身を傾け、自身のうちに「神とは人也」という一筋の道を見出しました。「持って生まれた、身を投げかけるようにして」歴史の問題に取り組んだ白石の、「古史通」という「孤独な仕事」は、宣長の「古事記伝」と同様に、強く稀有な光を放っています。しかし、小林先生は、白石の歩いた道と、宣長の歩いた道とは、まったく違う方向へ伸びていることを見抜かれ、こう語られます。

 白石は「太古朴陋の俗」による言葉の使い方を、正そうとするのだが、太古の人々の素朴な意のうちに、素直に入って行く宣長には、「太古朴陋の俗」というような白石の言い方は、全く無縁なのである。古人の意のうちに居て、その意を通して口を利いてみなければ、どうして古語の義などが解けようか。(同p.357)

 ご講義では、池田塾頭が、この第三十一章で、白石は宣長を背後から照らす逆光として語られているとお話しされました。私たち読者が、宣長の姿をより一層はっきりと思い出すことができるよう、小林先生の創意工夫の文章が繰り広げられ、白石の光は、宣長を背後から強く鋭く照らし出します。池田塾頭はまた、「声に出して読んで初めて、小林先生の思いが伝わってくる」ともおっしゃいました。小林先生の声を思い浮かべながら、先の文章を何度も読んでみると、小林先生の心の昂ぶりとともに、逆光に照らされた宣長の姿が心に映じ、私に直かに語りかけてくるように感じられました。
 持って生まれた気質を背負って、宣長は、歴史のうちに真っ直ぐに入って行きます。心の奥に映し出されるその姿を見失わないように、私自身も歴史という思い出に身交い、問いを重ねて、この先の章も読み進めていきたいと思います。

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