冨部 久 <感想> 「食べるということ」

冨部 久
 令和五年(二〇二三)九月二十一日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「花 見」
(「小林秀雄全作品」第25集所収)
「食べるということ」

 今回の講義では、小林先生の言葉で言えば、「思想と実生活」の中で、「実生活」の話が聴けるものと予想していました。実際、小林先生が実生活において、いかに桜の花、それも山桜の花が好きだったか、そして全国各地の桜の名木を訪れる際は、どれほど用意周到に七分咲の頃合いを見計らって出掛けられたかなど、桜の花と身交むかわれる際の小林先生の真剣さがひしひしと伝わる内容でした。恐らく小林先生の心の中では、本居宣長の桜に対する異常とも思える愛情を重ね合わせていらっしゃったのでしょう。それに反して、長年、品がないどころか冗談めかしてではあるものの「俗悪」とまで先生が言われたというソメイヨシノを眺めながら花見酒を楽しんできた自分が少し情けなくなりました。
 後半は、「食べるということ」でしたが、これについても小林先生が実生活において真剣に向き合われ、見た目や高価な食材で客を惹きつける料亭などとは正反対の、表向きは地味な「丸治」や「甚五郎」といった店にこそ、うまさの神髄があるということを、池田塾頭が身をもって教えられたという話に、小林先生らしいという印象を改めて感じました。
 そこから進んで、小林先生はうまい店を探すのに、その店の佇まいをじっと見て、それで判断されるという話がありました。池田塾頭は、そうすることにより、小林先生は味覚の直観を養われていたのだと言われました。そして、音楽を聴くときも、絵などを観るときも、小林先生は頭を使わず、五感でまず感じるようにして、自らの直観力を磨いて来られたとのことでした。
 この話で私が教えられたのは、あの人は感性が鋭いとか、直感が鋭いとか、よく言われますが、こうして普通、その人が持って生まれた才能のように言われる感性や直感は、実は人それぞれが様々な経験を積み重ねることによって、刃物のように研ぎ澄まされていくという認識でした。それは、七月の講義で取り上げられた「還暦」の中にある、「円熟するには絶対に忍耐が要る」という言葉と呼応するもののように感じられました。つまり、小林先生はじっくりと時間をかけて、ご自身の感性や直観力を根気よく磨いていかれたのではないかということです。このあたりは、「実生活」というよりは、むしろ「思想」の範疇に入るものではないかと思いました。
 熱い講義が終わったあと、池田塾頭から教わった、「蟹まんじゅう」という随筆を読んでみました。小林先生の味覚の鋭さを感ずるとともに、私が昔、中国に仕事で行った時に味わった、上海蟹の美味がありありと甦ってきました。そして、いつか揚州まで行って、この舌であつあつの「蟹まんじゅう」を味わってみたいと思わずにはいられませんでした。

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