事務局ごよみ(12)  小林秀雄と歩む人生   安達 直樹

事務局ごよみ(12)
 小林秀雄と歩む人生
安達 直樹  
 細胞生物学を長くやっている私にとって、細胞を観察するのは、とても幸せな時間だ。細胞には一つとして同じ形がないどころか、生きている細胞は刻々と形を変えるので飽きることがない。
 身体を構成する細胞には多くの種類があるが、神経細胞(ニューロン)は樹木のような枝をもつ細胞で、美しい。もう30年近くも眺めているが、今になっても、その美しさに見入ってしまって、手が止まることがある。もうこれで、この姿を知っているだけで十分なのではないかと思ってはいるが、それでは研究にならないので、どうしても細部に分け入っていくことになる。
 ニューロンの中心的な機能は、他の多くのニューロンから信号を受け取り、それを統合して、また別のニューロンやその他の細胞に信号を伝えることだ。だからニューロンの枝には大きく分けて二種類あって、他のニューロンから信号を受け取る「樹状突起」と、信号を伝達する「軸索」に分類される。不思議なことに、これらの名前、「樹状突起!」「軸索!」という呪文を唱えた途端に、ニューロンの美しさは、全体の姿とともに消えてしまう。それどころか私の仕事では、美しい細胞をバラバラに解体して、最後には数値となった要素をデータとして扱う。科学的に知るとはそういうことで、ある現象のメカニズムがわかった!というときには、やはり大きな知的興奮を味わうが、論文として発表する際には、当然、数値化された要素を並べることになるので、私は小さな抵抗として、自分の論文には美しい細胞の写真を(もちろんデータとして)できるだけ多く載せるようにしている。
 
——今日の様に、知識や学問が普及し、尊重される様になると、人々は、物を感ずる能力の方を、知らず識らずのうちに、おろそかにするようになるのです。物の性質を知ろうとする様になるのです。物の性質を知ろうとする知識や学問の道は、物の姿をいわば壊す行き方をするからです。例えば、ある花の性質を知るとは、どんな形の花弁が何枚あるか、雄蕊おしべ雌蕊めしべはどんな構造をしているか、色素は何々か、という様に、物を部分に分け、要素に分けて行くやり方ですが、花の姿の美しさを感ずる時には、私達は何時も花全体を一と目で感ずるのです。(「美を求める心」新潮社 小林秀雄全作品21)
 小林先生は何でもお見通しである。
 
 この「美を求める心」の冒頭で、小林先生は「何も考えずに、沢山見たり聴いたりすることが第一だ」と述べ、また講演でも、刀の映りに関する体験を具体例に、長く見ることの大切さを語る。
 小林先生が刀のことを教わっていた刀屋が、実際に目の前にある刀のうつりを指して、「ここにあるでしょ、ここに、ご覧なさい。今出ております。これが映りです」と言うのだが、小林先生には、いくら見ても見えない。そんな様子を見た刀屋から、「まだお見えになりませんね、今にお見えになります」と言われ、「ギョッとした」という経験だ。そして、「見て見て見ているうちに見える、そういうことがある」と述べる。(小林秀雄講演 ① 文学の雑感2 「審美眼」)
 
 私にとって、細胞の表情の変化を逃さないということは、もちろん仕事をする上での必要でもあるが、細胞好きも手伝って、とにかく長い時間顕微鏡をのぞき込んできた。そうしているうちに、微妙な陰影から細胞の表面の「ざらつき」なども見えてきて、栄養が足りているかどうかなど、細胞の「健康状態」までわかるようになった。一方で、細胞を見慣れない学生にとっては、そもそも重なり合った細胞一つひとつの輪郭を見分けることさえ難しい。どうやって見るのかを問われることも多いが、そんなときには、「まだお見えになりませんね、今にお見えになります」と言うことにしている。
 
 私は小林秀雄という人と、古本屋でたまたま手に取った「考えるヒント」を通じて出会った。こちらも30年近く前のことだが、数ページを立ち読みして、書かれている内容よりも先に、「日本語でこんなに美しい文章が書けるのか」ということに衝撃を受けたのをよく憶えている。今回、美しい細胞について書こうと思い、「美を求める心」を読み返してみて、膝を打ちながら「そうですよね、小林先生!」と、ただ微笑んでこちらをみているだけの小林先生と対話をする充足した時間を過ごした。
 若い頃は先人の考えなかったような「新しいこと」を考え出したいと無謀なことも空想したものだが、あるとき、敬愛する先人が遺してくれた言葉を、実際に経験して確認をする作業とその過程が、自分の人生を豊かにしてくれるということに気がついた。考えてみれば、小林先生も愛する先人の作品や精神とともに生きていた。
 ただ、先人と一緒に歩いて得たところを言葉にして、それが、美しく純粋な一つの自己表現となるのは希有なことだと、ようやく秋らしくなってきた夜にしみじみと思った。
(了)  

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