●金森 いず美
令和五年(二〇二三)十月五日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第三十二章 上「言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」
「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、十月に、「言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」という荻生徂徠の「論語徴」にある言葉に沿って第三十二章の前半を読みました。私たちは、この世に生まれた瞬間から、降り注ぐ「言葉」に身を包まれ、命尽きる瞬間まで、「言葉」に支えられ生きています。いつでも当たり前にそばにある「言葉」に対して、どのように心得、どのように接すれば良いのか。この章で小林先生は、宣長が吸収した徂徠の言語観に目を向けられます。徂徠は、孔子に学び、「言葉」を外から眺めるのではなく、その働きの内側へ入っていきました。徂徠の言語の道を知り、私自身は、言葉とともにある人生をどのように生きていくべきか、自分のあり方について深く考えさせられました。ご講義では、徂徠の言語観の奥底にある、孔子の「詩」に対する考えを、池田塾頭が分かりやすく解きほぐしてくださいました。また、「詩経」から、詩の一篇を取り上げて読んでくださり、僅かながら、言語の働きそのものの感触を、肌で感じるという体験をしました。
孔子に学んだ徂徠は、「論語」を注釈した「論語徴」で「凡ソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」と記しました。小林先生は宣長の稿本に接し、孔子の「詩」に対する考えが徂徠の言語観の奥底にあることを宣長が認め、これに動かされたのではないか、と確信されます。徂徠は、「興、観、羣、怨」という孔子のあげた詩の特色のうち、「興之功」「観之功」という二つの「詩之用」が肝腎であると考えていました。小林先生は、この二つの要素についての徂徠の考えをさらに紐解き、このように語られます。
基本となっているのは、孔子の、「詩ヲ学バズンバ、以テモノ言フコト無シ」という考え、徂徠の註解によれば、「凡ソ言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」という考えであるとするのだから、詩の用が尽しているのは言語の用なのである。従って、ここに説かれている興観の功とは、言語の働きを成立させている、基本的な二つの要素、即ち物の意味と形とに関する語の用法を言う事になる。(『小林秀雄全作品』第28集「本居宣長」p.12)
孔子が「詩」は言語の教えである、と語るとき、そのうちに徂徠が見ていたのは、言語の「本能としての」働きでした。言葉は発展し「新しい意味を生み出し」、言葉が集まって「物の姿を、心に映し出」します。「詩」を学ぶことは言語の内側にある働きと一体になることである。私たちの「言語生活」を支えている言語の働きそのものを体で受け取ること、それが言語の道である。「詩は言語の道を尽くす」という徂徠学に学び、その道を吸収した宣長の心の動きも、小林先生の文章の行間に滲んでいるように感じられました。
「小林秀雄『本居宣長』を読む」という講座の受講を重ねるうちに、先人が積み重ねてきた長い言語の歴史の中に、私たちは生まれたのだということ、自分たちの思うままに言葉を使っているのではなく、言葉に育てられ、言葉を使わせてもらっているのだということを、少しずつ感じられるようになりました。「言語を信じ、言語を楽しみ、ただその働きと一体となる事」、小林先生のこの一文によって、言葉の世界をもっと深く知りたいという思いがますます掻き立てられます。レコダの講座を初めて受講した日に池田塾頭に教えていただいた、「私たちは日本語を使わせてもらっている」ということに、これからもしっかりと向き合い、学び続けていきたいと思います。
金森 いず美 <感想> 第三十二章 上「言語ノ道ハ、詩コレヲ尽ス」
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