事務局ごよみ(13)  小林秀雄素読塾のご案内~『源氏物語』を原文で読む~   謝 羽 


事務局ごよみ(13)
 小林秀雄素読塾のご案内~『源氏物語』を原文で読む~
謝 羽  
 「人の心というものはだいたい、漢書に書いてあるような、ひととおりのそっけないものではない。深く思いつめるようなことがあるときに心は、なんやかやと煩わしく、めめしく、みだれて入り交じり、これと定まりがたく、様々な陰影があるものだ。この物語にはその煩わしい様子までも詳しく書かれている。まるで曇りのない鏡に読者を映して見せてくれているかのように、この世に生きる人々のこころのありさまを描き出したこの『源氏物語』には、大和にも唐土にも、過去から未来にいたるまで、比べものになる書はないと思っている」
(小林秀雄全作品27「本居宣長」十三章、「玉のをぐし二の巻」の引用より。現代語訳:謝羽)

 尊敬する宣長さんにそこまで勧められて、『源氏物語』を読まずにいられるでしょうか。
「小林秀雄素読塾~源氏物語~」の会はそんな思いに突き動かされた有志が集まって始まり、2ヶ月に1度、「源氏物語」(以降、「源氏」と呼びます)の原文を素読しています。開催から時が経って主催者は何度も入れ替わり、この世から去ってしまったメンバーもいました。それでも本会は6年目を迎え、まもなく折り返し地点にさしかかろうとしています。
 素読とは、書かれた文章を読み手に倣って声に出して読む読み方で、「源氏」を読むなら原文の素読が何よりも私はおすすめです。
 その理由の一つ目は、原文を選べば「誰の現代語訳がいいのか?」と考える必要がないからで、時間の節約になるだけでなく、人の解釈に煩わされず、自分の体で直接受けとめられるので、「まずは何でも自分の手で触ってみたい」と思う方にはぴったりです。「意味がわからないものに触るのは怖い」と思われる方は、アンリ・ベルクソンという、どの訳文でも意味がわからない哲学者の著書を素読してきた有馬雄祐氏の率直な体験談が事務局ごよみ(4)にありますので、そちらをお読みいただけますと勇気づけらると思います。
 さて、二つ目の理由は「音読」することです。言うまでもなく源氏物語は「歌物語」なので、「歌」が多く出てきます。「歌」は作者の気持ちが圧縮された詩であり、音の響きまで設計されているはずです。それならば音まで含めて楽しむのが、「源氏」の一番誠実な、そして贅沢な楽しみ方ではないでしょうか。とはいえ、「源氏」の原文をいきなり読むのは難しいため、「小林秀雄素読塾~源氏物語~」では、毎回「読み手」を数名決めて事前に練習をしていただいて本番を迎えます。誰でも最初は音読しても詰まってしまうので、お互いに音読の手助けをするのです。私はたいてい読み手として参加していますが、今回はその練習をしていた際の体験をお話したいと思います。
 読み手になるときは、十から十五回ほど音読をします。最初の3回は単語の意味を調べたり、注釈を読んだりして、原文になじんでいきます。次の3回では、登場人物たちの感情にあわせて声のトーンを変えていきます。「悲しい気持ちだろうから少し声のトーンを落とそう」といったシンプルなものです。
 こうして音読を重ね、10回を超えたあたりになると、私はいつも、自分は歩いていて、場面をのぞきこんでいるような気持ちになります。読んでいる私は長い廊下を歩き、登場人物たちが部屋のなかで会話したり、楽器を奏でたり、蛍を放ったりしているのを盗み見ているような、なんとも不思議な気持ちです。
 一度だけ、そのように「歩いている」とき、私のずいぶん先に紫式部が歩いている気配がしたことがありました。姿は見えず、本当に紫式部なのかはわかりません。ただ、とても切なく、幸せな気持ちになったことを覚えています。紫式部はもうこの世にいない。けれど、ここにいる。そんな気持ちになりながら、私は歩き続けました。
 そして、家のドアの枠に頭をぶつけました。
 ……いつの間にか、読みながら本当に歩いていたのです。
 いつから歩き出したのか、一体どこまでが想像で、どこまでが夢で、どこまでが現実なのか、あとから思い返そうにも、まったく思い出すことができません。

 さて、私は10ページ前後を読むだけでもこのような情けない有様ですが、宣長さんは『源氏物語』の文体をそっくりそのまま真似て「手枕」を書いています。一体そうなるまで宣長さんは、どれだけ「源氏」を読んだのでしょうか。「原文に慣れ親しむ」とは、なんと高く険しい道なのか。素読を続けていると、そのことを強く思います。そしてその険しい道を、宣長さんはなんと軽やかな足取りで歩いていったことでしょう。

「すべて人の心といふものは、からぶみに書るごと、一ㇳかたに、つきゞりなる物にはあらず、深く思ひしめることにあたりては、とやかくやと、くだくだしく、めめしく、みだれあひて、さだまりがたく、さまざまのくまおおかる物なるを、此物語には、さるくだくだしきさままで、のこるかたなく、いともくはしく、こまかに書きあらはしたること、くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて、大かた人の情のあるやうを書くるさまは、——」(小林秀雄全作品27「本居宣長」十三章)

 これは冒頭で私が現代語訳をした「本居宣長」本文の一部ですが、実はこの短い文章のなかに、「源氏」の言葉がずらりと出てきます。

「つきぎりなり」
意味:そっけなく言い放つ。突き放して言う。
文例:「はしたなくつききりなる事なのたまひそよ」(源氏物語 若菜下)

「おもひしむ」
意味:心にしみて深く思う。しみじみ思う。強く思う。「おもひそむ」とも。
文例:「おもひしみながらことでても聞こえやらず」(源氏物語 桐壺)

「くだくだし」
意味:わずらわしい、くどい。
文例:「さやうの人は、くだくだしう詳しくわきまへければ」(源氏物語 玉鬘)

「大かた」
意味:世間一般。
文例:「おほかたのやむごとなき御思ひにて」(源氏物語 桐壺)
         (「学研全訳古語辞典 改訂第二版小型版」より)

 宣長さんは自らの文章に「源氏」の言葉を実によく使っていて、辞書をひくたびに驚きます。これはまだ憶測にすぎませんが、宣長さんは「源氏」のことを書くとき、「源氏」で使われていた言葉を意識して使っていたのではないでしょうか。あるいは、紫式部が歩く姿を想像するために。
 そんな風に想像を膨らませながら、次回も読み手を担当するので、私はふたたび自分の小さな一歩を踏みしめます。これを読むあなたも、「源氏」の素読がしたくなったら、あるいは「歩きたく」なったら、「小林秀雄素読塾」はいつでもあなたを歓迎しています。
 次回は12月13日(水)、対面(東京)&オンラインで行います。
 詳しくはy.sha.taisa@gmail.comまでお問合せ下さい。
(了)  

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