●森原 和子
学ぶ楽しみ
ギッシング「ヘンリ・ライクロフトの私記」(岩波文庫)を読んでいてこんな文章にぶつかった。「私がイギリスに生まれたことをありがたく思う多くの理由のうち、まず初めに浮かぶ理由の一つは、シェイクスピアを母国語で読めるということである。(略)ホメロスが読めると私自身はいつも思っている。(略)彼の言葉が、ヘラスはなやかなりし頃ギリシャの海岸を歩いていた人々に与えたのと同じものを私に与えていると、一瞬でも夢想できるであろうか。(略)あらゆる国々はその国固有の詩人を享受するがよいのだ。詩人はその国土そのものであり、その国の偉大と美のすべて、その国民が生死をかけた、ほかに伝えることのできない遺産のすべてだからである。」
一瞬、衝撃が走った。まさに私はこれと同じ潮流に乗っている。「古事記」、「万葉集」、「本居宣長」、そして小林秀雄と続く日本文学の潮流に乗って学ぶ機会を得ているのだという喜びがあふれた。
十代にはトルストイ、ドストエフスキーを夜明けまで読んだものだ。内容を理解してではなく登場人物がどう突き進んでいくかにだけ焦点を合せていたように思う。しかし、次第に外国の歴史、宗教、芸術が理解できていないと真に理解はできないと気付いてきた。それまでスケールの違いから遠ざかっていた日本の文学を読み始めてみると、そうだと同意できることが増え馴染んできた。そして、「日本文学を理解したければ小林秀雄を通して『本居宣長』を知るべき」という文章に何度もぶつかることになった。一人で、「本居宣長」を読んでもちんぷんかんぷん。完読しても頭の中には何も残っていない、わからないという印象だけが残る。
最善のパートナーだった夫が亡くなった。子供も独立して責任はない。生きていれば生産性がなくても資源を消費する。生きる値打ちがあるのかと自問して閉じこもった期間もある。そのような時の2015年、広島で「小林秀雄に学ぶ塾in広島 発足記念講演会」が開催されることを知った。長年気になっていたことなので足を運んだ。後には、「小林秀雄『美を求める心』素読塾」が開催されていることを知った。気になれば確かめずにはいられない私の気性から、誰一人知った人もいないのにのこのこと会場を探して参加した。私の息子より若い世代で職業も異なる方々は、快く受け入れてくださった。
以後、知る喜びを体験することになる。池田雅延塾頭の言葉をわかりたくて予習、復習をする。読むたびにわかるという充足感が確かになっていく喜びは何物にも勝る。宣長に学んだ者は道楽に飽きた町人が多かったというのも肯けた。
一人生活は二十四時間、我が思うまま自由になる。つば吐けば我が顔にかかってくるだけ。人間は本来孤独な存在。一人になってわかってきた。何をしたいか、求めるものは何か、何をしたら満足感が得られるのかと考えた。
コロナ禍で一人時間はさらに増えた。だがZOOMによって月4回も池田塾頭の講義を聴く機会が増えて私に幸をもたらしてくれた。家に居ながらにして日本最高の講義を聴けるのだ。
「小林秀雄に学ぶ塾」に参加するようになって小林秀雄以外の作品を読んでもわかることが増えたことを実感している。
例を挙げる。阿部龍一「評伝 良寛」(ミネルヴァ書房)は、「本居宣長」の知識無くしてはわからなかったはず。良寛は、荻生徂徠の直弟子から江戸で学んだ大森子陽の三峰館で古文辞学を学び、孔子の教えに従って行動実践した。宋儒の教えの誤りを根本的にわかった上での放浪生活六年。キリシタン取り締まりのための寺社制度に甘んじた僧侶の怠慢、位階へのこだわり、集金を軽蔑してどの宗派にも属さず我が道を突き進んで、誰からも好かれる良寛になったのだ。和歌、俳句、手紙を数多く残している。その多くは何人もの人たちが乞うて書いてもらったものを家宝として保管したものである。それらから、良寛が言葉をいかに大切に使ったかが伺える。書き言葉を生まなかった日本で、日本語を無くしたくないという思いで漢字を用いて日本語を書き表そうとした太安万侶の苦心を理解したかのような、言葉が持つ力を信じて語りかけた文章はいさかいの心も和らげ人々を和ませたからこそ、大事にされて今日まで残ったのだ。
また、ベルグソン、サントブーヴ、ボードレール等、小林秀雄によって紹介された人物をかすかにでも知ることができて小林秀雄の本が読みやすくなったことは間違いない。
こんな「小林秀雄に学ぶ塾」ファンが地方にいることを知ってもらいたくて、書くこともおっくうになった老体にムチを打ち書きました。 2023.11.15
森原 和子 学ぶ楽しみ
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