事務局ごよみ(14)  塾とは何か   本多 哲也

事務局ごよみ(14)
 塾とは何か
本多 哲也  
 「小林秀雄に学ぶ塾(山の上の家塾)」を知ったのは、令和四(2022)年の正月のことである。その前年の秋に『本居宣長』を読んでいた私は、読み終えたとは言え、多くの疑問が曖昧なまま残っている状態で、さてどうしようかと悩んでいたところだった。年末年始の宿題として、気になる箇所の再読をしていた時に、ふとインターネットで見つけたのが、この塾だった。「私塾レコダl’ecoda」の母体となっている、茂木健一郎さんが池田雅延塾頭を招いて始められた「山の上の家塾」は、毎年春先に募集されるが、ちょうど入塾の応募締切が近いこともあり、急いで志望書を書き、入塾に至ったという経緯である。中学受験の際に親に入れられた塾を除けば、自らの学びたいという意志で門を叩いた、人生初めての「入塾」であった。
 そこで改めて考えたいのは、「塾」とは何かということである。真っ先に思いついた文章がある。池田雅延塾頭が小林秀雄『批評家失格 新編初期論考集』 (新潮文庫)にお寄せになった解説文である。そこでは、小林秀雄先生の恩師、辰野隆氏について書かれている。辰野・小林両氏の師弟関係にまつわる逸話は、その文章をそのまま味わっていただくに如くはない。ここでは、「塾」という言葉の使われ方を見ていただきたく、引用する。
 ——小林氏は、こうして東京帝国大学仏文科を卒業したのだが、世間から「東大仏文科卒」と見られたり言われたりすることを内心では疎ましく思っていた。終生「独立独歩」を人生いかに生きるべきかの中心においていた氏にしてみれば、我も我もと世間が寄りかかる「東大卒」という大樹は「非独立独歩」の最たるものであり、不本意極まりないものだったのである。小林氏は、東京帝国大学を出たのではない、その一角を占めていた「辰野隆塾」を出たのである。
 普通、大学の教授の名前を冠して「塾」とは言わない。「研究室」や「ゼミ」という呼称が一般的であろう。であれば、ここで池田塾頭がわざわざ「辰野隆塾」としたことに、塾という語に対する塾頭の、格別の情を感じざるを得ないのである。
 それを踏まえて、改めて塾とは何か。先の引用でもあった、「独立独歩」という語と深く結びつく学びの場であることは疑えない。日本において「学校」は、江戸時代以降、一人の教師が一方的な講義をし、生徒はそれを受動的に勉強する場であった。それはそれとして、国家にとって重要な役割があることは否めないが、何かそこには一人一人の人間を見えにくくするような雰囲気がある。学校とは官学が再生産される場なのだ。官学に対して、私学があり、私学の場が塾である。そして、塾にいる者は独学者である。もちろん、先生と呼ぶべき存在はいる。しかし、塾生たちの学問への意欲は内発的である。塾には、独学者の場という意味合いがあるのではないか。
 しかし、それだけではない。独学者が一人いても塾にはならない。独学者が集うことで塾が生まれる。山の上の家塾で、池田塾頭はしばしば「共同作業」という語をおっしゃる。塾生の自問自答を土台にして、よりよい答えを導こうと、と言うよりも、よりよい問いを形作ろうと、池田塾頭と塾生とが対話によって思索を深める。この作業を指して、共同作業と言われるのだ。ここには、教師が生徒の答案に丸つけをするのとは、全く異質の学びの営みがある。一人の独学者が提示した問いと答えを、塾頭が吟味する。塾頭もまた独学者である。ときに、第三、第四の独学者が対話に交じり、新たな展開が生まれる。模範解答はない。各々の全人格、全人生の交流が生きた劇となって上演される、その劇場が塾ではないか。
 池田塾頭の塾では、呼称の便宜上、「講義」と言うこともあるが、根本において、我々は塾である。我々塾生が行く小林秀雄という山道は、決して池田塾頭に背負われて歩くものではない。日々歩き方の指南はいただきながら、独立独歩、己の足で歩むのである。
(了)  

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