金森 いず美 <感想> 第三十二章 (下の二)「人生の意味の構造」

金森 いず美
令和五年(二〇二三)十二月七日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む>
 第三十二章 下の二「人生の意味の構造」

 十二月の「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、第三十二章後半を、前月の続きから読みました。小林先生は、荻生徂徠がその著作「弁名」の序で、「名教」という言葉を持出しているのは、「名教」という言葉の、通念化を脱して、その本来の意味合を見直せという考えからであった、と述べられます。

「名教」とは何を意味するのか。小林先生の文章を辿り、徂徠の考えを感じようとすればするほど、次々と問いが浮かんで重なり、靄が掛かったようで整理がつかず、大変もどかしい思いをしましたが、ご講義で池田塾頭がご紹介くださった、子安宣邦先生の著書『徂徠学講義』により、「弁名」に直に触れることができたことは、この章を読む上でとても大きな助けになりました。古の優れた聖人たちは、私たちが生きている社会を、幸せで豊かな、秩序ある社会にするために、為すべき営みを制作し、その営みに「名」を付けました。聖人たちが「心力智功を尽し」、心のうちに形作られた「物」に「名」を付けたことで、いつでも、誰の心にも、「名」から、その「物」の姿を映し出すことができるようになったのです。古聖人たちそれぞれの、たった一度きりの特殊な行いが合わさって、「道」となり、歴史が形作られていきます。歴史の始まりに立てられた「名」という標、徂徠は、聖人たちが付けた「名」の教えるところに身を投げ入れ、「弁名」を著しました。古の聖人たちは、何を思い、どのように生きたのか。真の学問とは、「名」と一体になり、古聖人の心のうちを思い続けることではないか。思い続けて思い抜いた先に、生きるということの本当の意味を得ることができるのではないか。小林先生の文章を繰り返し読むうちに、「学問とは名教に他ならぬ」という徂徠の声が、私の心にも次第に聴こえてくるように感じました。

「詩は言語の道を尽くす」という言葉から始められた第三十二章、「物」に「名」を付けた古の聖人たちの言語の道を、詩人が紡ぐ言葉の世界に重ねるならば、「生民より以来、物あれば名あり」という徂徠の文章は、一層深く感じられてきます。物の姿を心に映し出す言語の働きが、古の聖人たちと私たちを結び、彼等の紡いだ「名」の姿は、尊く、掛け替えのない「物」として、私たちの前に現れます。小林先生が語られる言葉にしっかりと耳を傾け、「物」と「名」とが直に結ばれているその姿を感じ取りながら、次の第三十三章に入っていきたいと思います。

この記事を書いた人

ここに簡単なプロフィールなどを記載できます。

目次