●大江 公樹
令和六年(二〇二四)一月四日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第三十三章 「学の道は、黙して之を識るに在り」
今回の講義冒頭では、長文読解といふ名のもとに他人の文章を平然と要約させる大学入試の国語の問題を小林秀雄先生は非常に嘆かれ、憤られてさへゐたといふことについてお話いただきましたが、何であれ文章の要約は原文の破壊であり、荻生徂徠がいふところの「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」ことになるといふ池田塾頭の言葉は、これまで読んできた『本居宣長』の章を背後に、いっそうの厚みを以て感じられました。
第三十三章の後半では、様々な文章で引用される「考へる」といふ言葉の本義、「身交ふ」について述べられる場面に辿り着きましたが、この部分が本当に持つ意味合ひといふのも、要約や引用では伝はらない、前後の流れがあつてのものだと思ひます。
『本居宣長』に限らず、原文に向き合ひ通すことの大事を悟らされる回となりました。
第三十三章の冒頭で「默シテ之ヲ識リ、學ンデ厭ハズ、人ニ誨ヘテ倦マズ」といふ言葉といきなり出会ふと、その字面が伝へる意味だけしか理解することが出来ません。しかし「さういふ、『信ジテ好ム』道を行くものの裡にある、おのづからな智慧の働きを、孔子は『默シテ之ヲ識ル』と言つたとするのが、徂徠の解である。従つて、『默シテ之ヲ識レバ即チ好ム、好メバ則チ學ビテ厭ハズ、厭ハザレバ則チ樂シム、樂シメバ則チ人ニ誨ヘテ倦マズ』といふ風に、孔子の言葉を受取つてよい」といふ部分まで読み進めますと、冒頭の言葉が生気を帯びて、言葉の背後にある何かが立ち上がつて来るやうに感じました。
次回も楽しみにしてをります。