金森 いず美 <感想>  第三十三章 「学の道は、黙して之を識るに在り」

金森 いず美
 令和六年(二〇二四)一月四日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む>
 第三十三章 「学の道は、黙して之を識るに在り」

 一月の「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、第三十三章を読みました。「述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム」という言葉から続く、「黙シテ之ヲ識ル」という孔子の言葉は、心に繰り返すごとに、その難しさにぶつかります。頁を開いては閉じ、また戻り、考え、新たな道に足を踏み入れるような緊張を感じながら、年明けのご講義に臨みました。

 意味を運ぶ言語の働きに頼りきり、安易に言葉を積み重ねて、物事を理解したつもりになっていることが、真の学問の道を妨害している。徂徠の声は、小林先生の声でもあります。では、「物」の「義」を介さずに、物事を知る、分かるにはどうすれば良いのだろう……。ご講義後、一人考えている今この瞬間も、私の頭のなかは、言葉の意味をあれこれと追っています。小林先生の声に耳を傾け、考えれば考える程、とても深く難しい問題であることに気づかされ、ご講義のなかでの池田塾頭のお言葉と、小林先生の文章を、何度も心に繰り返して、ひと月を過ごしました。

 古聖人たちが遺した「物」から、それぞれの特殊な制作の経験の、そのままの姿を受け取り、古聖人の心のうちを思い続けること。徂徠が孔子から吸収した学問は、「物に習熟して、物と合体する事」であったと、小林先生は語られます。「礼楽」という「物」と同じく、「詩書」という「物」、「古言」という「物」もまた、それを知り、分かりたいのなら、それに習熟し、その性質と合体するほかに道はないのです。それでもまだ言葉の意味を追い、考え迷っている私の心を、「黙シテ之ヲ識ル」という孔子の言葉が、低く重みを持つ音で占領します。池田塾頭がご講義で取り上げられた第十章、そこに記された、「如此注をもはなれ、本文計を、見るともなく、讀ともなく、うつらうつらと見居候内に、あそここゝに疑共出来いたし、是を種といたし、只今は経学は大形如此物と申事合点参候事に候。」という徂徠の告白は、とても興味深く心に響きました。「本居宣長」という作品の、その「姿」にいつか出会えることを願いながら、生まれ出る問いに身を投げ入れ、「其ノ心志身体既ニ潜ニ之ト化ス」まで、黙して心を重ねる時間を一日一日続けていければと思います。

この記事を書いた人

ここに簡単なプロフィールなどを記載できます。

目次