●吉田 美佐
令和六年(二〇二四)一月十八日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「志賀直哉」
(「小林秀雄全作品」第1集所収)
「尊敬するということ」
一月の「小林秀雄と人生を読む夕べ」第二部「小林秀雄 生き方の徴(しるし) 」では、「尊敬するということ」というテーマでご講義をしていただきました。
池田雅延塾頭が、小林秀雄先生の「批評とは、人をほめる特殊な技術である」との言葉を示され、それはまさしく尊敬ということそのものだと言えると話されました。そこで、批評について書かれてある小林先生の著作に触れてみようと思い、「批評」(「小林秀雄全作品」第25集所収) を手にしました。読み進めていくと、「ある対象を批判するとは、それを正しく評価する事であり、正しく評価するとは、その在るがままの性質を、積極的に肯定する事であり、そのためには、対象の他のものとは違う特質を明瞭化しなければならず、また、そのためには、分析あるいは限定という手段は必至のものだ」(同上、p11) との文章があり、その中の「在るがままの性質を、積極的に肯定する」という部分が目に留まりました。そうするためには、頭で考えるより先に、まずは姿をまるごと感じようとする心が必要で、そのような対象への向き合い方もまた、尊敬があるからこそできるのではないかと考えました。
そこで自分を省みますと、何かに興味を持った時、つい自分の価値観など観念的なものが先に浮かび、それに合うか合わないかで善し悪しを判断しようとしていて、そのような物事の捉え方をしている時には、尊敬など全くできていないことに気付かされます。その点、小林先生は、心が動いたものに対して、常に尊敬の気持ちを持ってその姿をまるごと感じようとしていらっしゃったのだと思い、そしてその姿勢がいかなるときにも一貫していることに素直に感動します。
また、池田塾頭は、小林先生が「人間は、身体的にも精神的にも、古代にもう完成していた」とおっしゃっていたことにも触れられました。私はこれを聞いたとき、実は、最初不思議な気がしていました。古代の人は、当然知識など持たずに、いろいろなことを考え実行し、成功したり、時には生死にかかわるような失敗も少なからずしてきているはずだと考え、古代からのそのような経験が積み重ねられた後に生まれてきた現代の人間の方が、良くなってきているのではないのかと思っていたのです。
以前、池田塾頭が『Webでも考える人』に連載されていた「随筆 小林秀雄」の「八 原始人、古代人のように」の中にも、小林先生の上述の言葉が書かれており、そこに「蘇我馬子の墓」(同、第17集所収) が引用されているのが目に留まりました。私が引用する範囲は少し広いのですが、「私は、バスを求めて、田舎道を歩いて行く。大和三山が美しい。それは、どの様な歴史の設計図をもってしても、要約の出来ぬ美しさの様に見える。『万葉』の歌人等は、あの山の緑や色合いや質量に従って、自分達の感覚や思想を調整したであろう。取り止めもない空想の危険を、僅かに抽象的論理によって、支えている私達現代人にとって、それは大きな教訓に思われる。伝統主義も反伝統主義も、歴史という観念学が作り上げる、根のない空想に過ぎまい。山が美しいと思った時、私は其処に健全な古代人を見附けただけだ。それだけである。ある種の記憶を持った一人の男が生きて行く音調を聞いただけである」(同上、p226) とありました。「山の緑や色合いや質量に従って、自分達の感覚や思想を調整する」とは、美しい山を見た時、その緑や色合いや質量にまず第一に心が動かされ、その後で、自分のその感動とは何だったのかとあらためて考えていくのが、物の感じ方の正しい順序だということなのではと考えました。それができていた「健全な古代人」に対して、現代に生きる私は、やはり心で感じるより、まず知識を優先して頭で考えてしまっていることに気づかされ、小林先生の「人間は、身体的にも精神的にも、古代にもう完成していた」との言葉を理解することができました。
このように、人生いかに生きるべきかという、小林先生の常に変わらない大切な心の持ち方を、私塾レコダ l’ecodaで池田塾頭から教えていただける機会に感謝し、自分の実人生に生かせるよう取り組んで参りたいと気持ちを新たにした次第です。
吉田 美佐 <感想> 「尊敬するということ」
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