事務局ごよみ(16) 自分の身丈に、しっくりあった思想
村上 哲
――この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈に、しっくりあった思想しか、決して語らなかった。(「本居宣長」第二章、新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.39)
『本居宣長』という長大な道のりの、いうなれば旅立ちの直前、さりげなく置かれたこの言葉は、章を読み進めていくほどに、その姿を鮮明にしていくかのような趣きがあります。それは、ただ本居宣長という人の姿を照らすのみならず、まさに、余人には成しえなかった偉業の所以を照らしだす、最初のスポットライトだったのかもしれません。
現代のように専門知識の建築を生業とする専門家と違い、当時、学者たるものの仕事とは、つまるところ、人生をいかに生きてゆくべきかという問いに答えることでした。そうでないならば、それは学者というよりも、技芸を志す者だったはずです。
では、宣長の『自分の身丈に、しっくりあった思想』とは、人生をいかに生きるべきかということだったのでしょうか。そう言って間違いではないでしょうが、そこには、一段の注意が必要になると思われます。
宣長のみならず、当時の学者は、それこそ、在野であろうと幕府に仕えていようと、いかに生きてゆくべきかという問いに向かっていました。その意味で、この問題意識は、宣長のみならず、当時の学者が皆、共有していたと言ってもいいでしょう。
いかに生きてゆくべきかという問いが、『自分の身丈に、しっくり』あうとは、どういうことか。それは、そこから最も対照的ともいえる、官学について考えてみると、多少は見えやすくなるかもしれません。
官学とは、つまるところ国を治めるための学問です。もちろん、そこにおいて国民がいかに生きるべきかという問いも当然あり、それに答えられぬようでは、官学たる意味がないでしょう。
しかし、その答えとは、どうあがいても政府の都合によった答えです。こう言うと、現代からみれば何とも欺瞞に満ちた答えと見えるかもしれません。ですが、そうでないならば、それは官学たる資格がない、とすら言っていいでしょう。国を治める立場から言えば、政府を安んじるということは、そのまま、民を安んずるということでもあります。
もちろん、このような考えが、商家の子に生まれた宣長には『自分の身丈に、しっくりあった思想』と見えないのは、明らかでしょう。それこそ、官から支給された御仕着せの思想と言う他ありません。
では、在野の学問においてはどうでしょうか。ここにも、いくつかの注意が必要と思われます。
一つは、当然、当時の学問とは、そのほとんどが儒学であったという背景があります。儒学というものが、そもそも、いかに国を、それも、宣長の生国からはるか海を隔てた地にあるような国を治め民を安んじるかという道を目したものであり、強いて官学における学問との違いを上げるなら、それが必ずしも現行政府の都合に合わせる必要がない、という程度の違いでしかないでしょう。
どちらにせよ、宣長にとって、それはあまりに遠いところから配された思想にしか見えなかったのではないでしょうか。これは、儒学のみならず、仏教や、おそらくは当時新しく吹き込んでいた蘭学などについても、同じだったのではないかと思われます。
それは、それらがただ遠い異国から来たものだった、というのみならず、そのいずれもが、天理や真理など、努めて自分から遠いところから考えを始めている、そういうところに宣長は引っかかっていたのではないか、そんなことを思ってしまいます。
もっとも、それは、それぞれの学問が、というより、そこに従事する学者たちの態度が、と言った方が正確かもしれません。宣長には、彼らが、自らの生き方について、自分よりはるかに遠いところからお墨付きをいただこうとしている、そんな風に見えていたのではないでしょうか。
宣長は『自分の身丈に、しっくりあった思想しか、決して語らなかった。』
それは、いかに生きるべきかという問いに答えるということは、決して、どうすれば間違いのない生き方ができるかということではない、いうなれば、そういった覚悟を、しっかりと育て上げてきたということなのかもしれません。
(了)