●金森 いず美
令和六年(二〇二四)二月一日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第三十三章 下「かむかふ、と、からごころ」
(「小林秀雄全作品」第28集)
二月の「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、第三十三章の後半に入りました。古人が遺した「物」から、その個性を感じとるには、心をどのように働かせたらよいのだろうか。前半に取り上げられた「黙シテ之ヲ識ル」という言葉に、未だ思いを留めたまま、小林先生の文章と自分の心とを何度も往復しつつ、後半のご講義の日を迎えました。
ご講義の冒頭で、池田塾頭は、徂徠の「古文辞学」の「文辞」について、「文」は「あや」で、いくつかの言葉が集まって出来る詩や文章で言外に生まれる余韻と言われるものの感じに近く、「辞」はもともと一語で「あや」を感じさせる言葉です、とお話しされました。そして、毎回、塾頭がご講義の多くの時間を割かれて小林先生の原文を読まれるのは、小林先生が言おうとされていることの「あや」を感じ取ってもらうためであると、力強くおっしゃり、「池田が音読する小林先生の原文から原文の文意以上に『あや』を聞き取ろうとしてください」、と私たちに語りかけられました。池田塾頭のお声に耳を澄ませ、小林先生が作られた文章のそのままの形に静かに心を傾けると、文と文との間の沈黙の奥に滲む、小林先生の一番伝えたい思いが、だんだんと心のうちに染み渡ってきます。全身全霊を掛けた作者の沈黙に、読者が同じように全身全霊の沈黙を重ね合わせることで、初めて、文章の内側から滲み出る作者の言葉が、心のなかに映し出されるのです。原文を読むことに徹していらっしゃる池田塾頭のご講義によって、「黙シテ之ヲ知ル」という言葉の手掛かりを得られたように感じました。
そこでさて、この第三十三章で、小林先生は、「漢ごゝろ」という言葉について語った宣長の文を「玉かつま」一の巻から引用されますが、先に私たちにこのように語りかけられます。
宣長が、「古事記」と取結んだ、親身な緊張した人間的関係の只中で、「漢ごゝろ」という言葉を生き生きと発言している、その事が、まことによく感じられる文を、幸い、彼は遺しているので、全文を引いて置く。(『小林秀雄全作品』第28集「本居宣長」p.34)
読者もぜひ宣長さんの声を直に聞いてほしいという小林先生の思いが、真っ直ぐに届けられたこの文章は、まさに生き生きとした響きをもって、宣長の文に私の心を向かわせました。小林先生はこの「本居宣長」という作品で、様々な方法で、原文を読むことの楽しみや感動、何からも未だ荒らされていない原文の持つ大きな力を、私たち読者に伝えてくださっているのだと感じます。頭で考えることには限界があるのだ。賢く考えたいという思いを潔く捨てよう。また心を新たにして、第三十四章からも、五感と心を澄ませ、小林先生の原文にぶつかっていきたいと思います。
金森 いず美 <感想> 第三十三章(下)「かむかふ、と、からごころ」
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