●金森 いず美
令和六年(二〇二四)三月七日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第三十四章 「言葉で作られた『物』の感知」
三月の小林秀雄『本居宣長』を読む」は、第三十四章を読みました。この章にいたるまで、小林先生は、徂徠が「物」と「理」をどのように捉えていたかを、また、宣長がどのように捉えていたかを、丁寧に慎重に解きほぐしてくださいました。前章では、「格物致知」という言葉に触れられ、「道という『物』が、当方に来るのを迎え、これを収めて、わが有となす、そういう物の親身な経験を重ねているうちに、無理なく知見は開けて来る」という徂徠の考えを示され、宣長の学問に入っていくうえで心に据えておかなければならない徂徠と宣長との繋がりを、私たちの目の前に描き出してくださいました。
第三十四章に入り、小林先生は、「古事記」を「むかへ」た宣長の経験は、徂徠が「六経」の「格る」のを待った経験に直に繋がっている、そのことを心に想い描いて貰いたいのだと、私たちに語りかけられます。小林先生の文章を繰り返し読みながら、古人と歩き始める宣長の「出発点」に、いま小林先生とともに立ち会っているのだと、自ずと気持ちが高揚していくのを感じました。宣長が「物」の経験について市川匡の問いに答えて語ったところを、小林先生はしっかりと受け取って、私たちにこのように投げかけられます。
宣長の言い分は、確かに感知される物が、あらゆる智識の根本をなすという考えに帰する、というだけの話なら、一応は、簡単な話と言えよう。だが、宣長は議論などしているのではなかった。物のたしかな感知という事で、自分に一番痛切な経験をさせたのは、「古事記」という書物であった、と端的に語っているのだ。更に言えば、この「古への伝説」に関する「古語物」が提供している、言葉で作られた「物」の感知が、自分にはどんなに豊かな経験であったか、これを明らめようとすると、学問の道は、もうその外には無い、という一と筋に、おのずから繋がって了った、それが皆んなに解って欲しかったのである。(『小林秀雄全作品』第28集「本居宣長」p.42、43)
これは、宣長の切なる思いに重ねた、小林先生の切なる思いだと、私には感じられました。ご講義で池田塾頭が読まれる原文を味わいながら、「本居宣長」という作品を書かれている、そのただなかにある小林先生の思いが、ひしひしと伝わってくるようでした。
天は「あめ」として、山は「やま」として、海は「うみ」として、神は「かみ」として、在るがままに人間と交わっていた生き生きとした、「言辞の道」を、宣長は古人とともに歩いたのだ。「本居宣長」という作品によって照らされた道、その「出発点」にいま私は立ち、道をむかえようとしています。理に動かされ、頭でばかり考えている私に、宣長が経験した、豊かな古人との交わり、言葉で作られた「物」の経験が、果たしてできるだろうか。宣長の願いに耳を傾けて、「心の汚れを、清く洗い去」り、心を澄ませ、古人の声を感じながら、小林先生が照らしてくださる「言辞の道」を、一歩一歩、進んでいきたいと思います。
金森 いず美 <感想> 第三十四章 「言葉で作られた『物』の感知」
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