田中 純子 <感想> 「想像力」という言葉

●田中 純子
 令和六年(二〇二四)三月二十一日
 <小林秀雄と人生を読む夕べ>
 第二部 小林秀雄 生き方のしるし
  「想像力」という言葉

 私塾レコダl’ecodaの三月の案内文が送られてきた時から、この機会になんとか自分の考えを整理したいと思った事がありました。
 それはずばり「想像力」について、です。若い日から、「想像力」は「生きる上で極めて大切なもの」と捉えてきたので、小林秀雄さんがどのように語られているか……心躍りました。
 私は、「想像力」とは「眼前にないもの、見えないものを見る力」……例えば今、地球の裏側で飢えている子どもの姿をありありと想い描く力であり、それは行動を呼び起こす。その意味でそれがなんらかの寄り添う行動につながれば「愛=想像力」と言い得る……というようなことをずっと考えてきました。
 そして、そのような「想像力」を身につけるためにはどうすればよいのか……。
 日々、具体的にどう生きるかを考え、行動を選択し、実践することが肝要で、世界への関心を持ち続け、何が起こっているかを知らなければならない。過去・未来を想像するのも、本質は同じではないか。つまり、時空を越えて、「今、眼前にないもの、見えないものを見る力」が肝要で、それが行動に繋がる、というふうに考えてきました。

 池田塾頭の「三月の講座のご案内」では、「想像力」という言葉は、「私たちが日常生活においてもしばしば耳にしたり口にしたりしている言葉だが、小林先生においてはとりわけ大きな意味を帯びて用いられている」と書き始められ、具体的な例を挙げて、小林秀雄さんの語られる「想像力」とはどのようなものかを紹介されています。
 小林さんは、「ドストエフスキイの生活」の「序(歴史について)」で、私たちは「織田信長の友人だったら」「若し氷河時代に生れていたら」と想像し、「天地開闢かいびゃくの仕事に立会う事」も出来る、実際こういう想像力の働かない処では、歴史はその形骸をさらすだけである……と書かれています。
 また、「蘇我馬子の墓」では、「生きた人が死んでしまった人について、その無気なけなしの想像力をはたく。だから歴史がある……」と「歴史」は「想像力」無しにはありえないことに言及されています。
 さらに池田塾頭は、「想像」と「空想」とを混同していないかと問いを投げかけられ、この「想像」と「空想」との混同を巡っては、小林さんが昭和八年、三十一歳の十一月、『文學界』に掲載された「金文輯君へ」の中の文が紹介されています。そこでは――平常な人間でも病的な空想をほしいままにする事は出来るが、それは飽くまでも空想であって作家の想像力とは別の事だ、空想というものは観念上の遊戯であり、想像力というものは作家の性格的な力なのだ、と言われています。そして今の病的な、空想的な作品ではなく、作者の血肉の裏づけのあるほんとうの想像力でもっと平常な材料を扱い、自分の力を試すように……と言われています。ここでまた私は(最近特に感じている)小林秀雄さんの(他人に対する分け隔てのない)誠実さ、尊敬の念を見て、感動しましたが、塾当日の池田塾頭の言葉(正確かどうか自信が無いけれども)で補えば、「想像力」とは「日常生活の実感・経験」に裏付けられたものということになるでしょうか?

 生きている実感を、それこそ生き生きと感じさせるもの……。
 小林さんの「無常という事」で言えば、「僕は、ただある充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間」、そしてそれは「巧みに思ひ出」すことによってのみ得られる時間らしい。
 ここでの、この「思い出す」という言葉・表現が、なんと印象深く美しいことか。私たちは普通、自分(故人も含めた肉親・友人、知人等)に関わることを「思い出す」のですが、小林さんの言うそれは、もっと深く広く……、勿論自分に直接関わる出来事も「思い出す」のですが、全く自分と関係の無い過去に生きた人々のことも、遙か遠くの人の思いも、生き生きと我が事のように感じる……その姿が蘇ることを言うらしいのです。
 塾当日の塾頭の言葉として、次のような表現が私のメモにあります。
 歴史は思い出。上手に思い出す行為。訓練した想像力で、時空を越えて、具体的に立体的に思い出す……。
 どうやら「想像力」もまた、「見る事」「聞く(聴く)事」同様、訓練なしに得ることはできないようですが、否、「想像力」は、「ささやかな遺品と深い悲しみとさえあれば、死児の顔を描くに事を欠かぬあの母親の技術」(「ドストエフスキイの生活」序(歴史について))のように人間に本来備わっているものだとすれば、こういう天与の「想像力」を眠らせてしまっている私たちは呼び覚まさなければならないのかも知れません。

 私は、今、小林さんのように「上手に思い出」したい。亡き夫の動じない美しい姿を……、そして同じように、何十年か前、志半ばに戦地で死んでいった若者たちの生きた姿を……。
 そして今日もささやかな一日を、なんとか納得のいくように生きていきたいと心から願います。

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