事務局ごよみ(18)  小林先生の文章は「散文」ではない、「詩」なのだ!   入田 丈司


事務局ごよみ(18)
 ~~今月の「交差点」より~~
  小林先生の文章は「散文」ではない、「詩」なのだ!

入田 丈司  
 三月も終わろうとしていますが身にこたえる寒さが続き、いっそう満開の花々が待ち望まれます。
 今号に掲載されました「交差点」への投稿文で、金森いず美さんは、小林秀雄先生が訳された「ランボオ詩集」の講義について書かれています。若き日の小林先生がランボオの詩に出会って「激しく魂を掴まれ」たこと、小林先生がランボオの詩と長年に渡って深い親交を続けられたことを綴られています。そして、講義の中で池田塾頭からランボオの詩を素読してみることを勧められ、金森さんご自身が講義の翌日に声に出して読み素読を実践された。それを読んで、私も素読をしてみました。すると、金森さんが引用された小林先生の一文、「その昔、未だ海や山や草や木に、めいめいの精霊が棲んでいた時、恐らく彼等の動きに則って、古代人達は、美しい強い呪文を製作したであろうが、ランボオの言葉は、彼等の言葉の色彩や重量にまで到達し、若し見ようと努めさえするならば、僕等の世界の到る処に、原始性が持続している様を示す」(『小林秀雄全作品』第15集「ランボオⅢ」p.139)、という批評に、自分の心というより身体がうなずく実感がありました。何十年も前の高校生時代に、ランボオの詩を初めて読んだものの何を表しているのか皆目わからず、このランボオの詩を凄いと言っている人が凄い、と独り言をした記憶のある私にも、素読は何かをもたらしたようです。
 また、田中純子さんからの投稿文は、小林先生の言われる「詩」について、田中さんがどのように受け止めていらっしゃるかが前半で綴られています。田中さんが印象深い言葉とした中から、「ボオドレエルの象徴詩はボオドレエルの思想・感性の、言葉による未完成な彫刻であって、読者の思想・感性との出会いを得て、詩として完成する」、にハッとしました。読むという行為は、作者が言葉を作り出す行為に読者も加わるという積極的な行いだと。これは普段なかなか意識できないように思いました。また後半で田中さんは、ご自身が経験されている、学校での国語の授業の現実と課題について書かれています。「じっくりと(要約ではなく)作品そのものと向き合い、自らの考えを練り、作者と対話する……というような授業実践は現場では至難の業です」という現実。たしかに、限られた授業時間で、また学年によっては入試準備も必要な中で、とても難しく苦労が絶えないと思います。自分の学校時代でも作品としっかり向き合あった経験は少なく、高校の教科書に小林先生の「天の橋立」というエッセイ全文が載っていて授業を受けたのみかもしれません。実は私にとってこのエッセイは初の小林先生との出会いです。高校生の私は、冒頭に出てくる油漬けのサーディンを食べてみたいと思った以外、まともな感慨を抱いたものかどうか怪しいものですが、それでも小林先生の深みのある文章は授業とともに心に残っています。学校の授業という様々な制約のある場であっても、授業は作者や学問の世界に向けて歩みだす最初の一歩となり、それは貴重でとても価値があると思うのです。
 新年度になると、そこかしこで色彩が豊かになり、新たな出会いが始まる季節です。私も読者の皆さんも、すがすがしい気持で日々の学びに臨んでいければと念じております。
(了)  

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