大江 公樹 <感想> 第三十五章 「初めに文ありき」

大江 公樹
 令和六年(二〇二四)四月四日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む>
 第三十五章 「初めにあやありき」

 第三十五章は宣命についての話から始まります。池田塾頭は宣命について、どんな内容を読み上げるかではなく、どういふ風に聴き取つてもらふかといふ語りを重視したものであること、そして先生ご自身が、本講座で『本居宣長』を音読する際に同じ姿勢で読んでいらつしやる、といふ旨のことを述べられてゐたかと思ひます。
 本講座を、『本居宣長』の解説ではなく、受講生の前で専ら音読するといふ形式で進めることの意義といふのは、これまでも池田塾頭は毎回講座で仰つてこられました。しかし、面白いことに同じテーマでありながら同じことを聴いてゐる気が全くいたしません。毎回『本居宣長』で扱ふ章の内容に即して音読の意義をお話して頂いてをりますが、『本居宣長』といふ本が、音読する事の意義を繰り返し異なる角度から説いてゐるやうに感じます。今回も音読の大切さについての考へを新たにさせられました。
 本章では、『うひ山ぶみ』から次の一節が引かれてをりました。

 文義の心得がたきところを、はじめより、一々に解せんとしては、とゞこほりて、すゝまぬことあれば、聞えぬところは、まづそのまゝにて、通すぞよき、殊に世に難き事にしたるふしぶしを、まづしらんとするは、いといとわろし、たゞよく聞えたる所に、心をつけて、深く味ふべき也、こはよく聞えたる事也と思ひて、なほざりに見通せば、すべてこまかなる意味もしられず、又おほく心得たがひの有て、いつまでも、其誤リをえさとらざる事有也

「聞えぬところは、まづそのまゝにて、通すぞよき」、「たゞよく聞えたる所に、心をつけて、深く味ふべき也」といふ箇所を読んだ時には、大いに勇気をもらへました。と申しますのも、私は全集ではなく、手許にある昭和52年に出された『本居宣長』で読んでをります。古文・漢文の部分に注釈が無いため、意味がわからず度々難儀してきました。しかし、この一節を読みますと、まづは意味がわかるところを味はへば良いのだといふ後押しをもらへます。確かに、文の意味がわかるところを読むだけでも、何かしら感じるものはあります。それに、何度か読むうちに、「聞こえぬところ」の意味が何となくわかつてくる、といふこともよくあることです。また、意味が自力でわかつた時には、喜びがあります。引用した一節全体の意味、そして小林先生が引用なさつた意味は、私の体験とはまた別のところにあるやうに思ひますが、それでも読んでゐて励まされた部分となりました。

 最後の質疑応答コーナーでは、骨相見のおばあさんが若き日の池田塾頭に伝へた言葉を伺ふことができ、大変興味深かつたです。どこに身を置くかといふのが大事であるといふのは、自分自身の体験からも感じる所で、今後の人生でも考へて行きたいと思ひました。

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