金森 いず美 <感想> 第三十五章 「初めに文ありき」

金森 いず美
 令和六年(二〇二四)四月四日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む>
 第三十五章 「初めにあやありき」

「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、第三十五章に入りました。日本語という言語は、私たちの祖先によってどのように育まれてきたのだろうか。上代の人々が互いに言葉を交わして暮らしているその場に、私も一緒に立ち会っているような気持ちで、小林先生の文章に耳を傾けました。

 小林先生は、宣長が掴んだ上代の言葉の感触に目を向けられ、「宣命」という言葉はもともと「ミコトノル」というその「事」を指し、今は伝わらない「宣命譜」という古書が、「ミコトノル」その「読揚ざま、音声の巨細長短昂低曲節などを、しるべしたる物」であったこと、「宣命」という「事」が、「神又人の聞て、心にしめて感くべく、其詞にあやをなして、美麗ウルハシく作れるもの」であったことを、「続紀歴朝詔詞解」序文に記された宣長の文章から拾い上げられます。また、宣長が、「神代紀」の「天ノ石屋戸ノ段」を引用したのちに、「神も、殊に言詞のうるはしきを感給ふことをしるべし」と述べていることにも触れられ、「意より詞を先きとする」宣長の主張が、上代の人々の言葉の感触といかに固く結ばれていたか、上代の人々が何を大切にして言葉の世界に身を置いていたかを、宣長の考えに沿って私たち読者に示されました。

 ご講義では池田塾頭が、この第三十五章は、小林先生の言語観が語られている章であるとお話され、いつも以上に多くの文章を引用されました。池田塾頭のお声に耳を傾け、その「文」に素直に身を預けていると、小林先生が実に細やかに丁寧に、私たちの身近な経験に重ねて、人間と言葉との関係を語ってくださっているのが分かり、小林先生の言語観という大きな世界の扉が開いて、「言辞の道」に自分も立っているのだという感動が、心に湧いてきました。

 小林先生は続いて、宣長が言語の働きについて述べたところを、「うひ山ぶみ」と「石上私淑言」から引用され、言葉と人間との関係を、宣長がいかに深く考えていたかを想像してみよと、穏やかに促されます。「いひきかせたりとても、人にも我にも何の益もあらね共、いはではやみがたきは自然の事」という「言語に本来内在している純粋な表現力」が我々を互いに結び合わせ、「文」を取り交わすことによって、我々は秩序あるしっかりした共同生活を築いてきた。その信頼が、日本語の伝統を育んできたのだ。そのことを最もはっきりと意識していたのが万葉歌人である。小林先生は、私たちにそう語りかけ、「歌は、凡そ言語の働きというものの本然を現す」という宣長の考えに心を重ねられ、人麿の歌を引用されました。

「葦原の 水穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙ぞわがする 言幸く 真幸く坐せと 恙なく 福く坐さば 荒磯浪 ありても見むと 百重波 千重浪しきに 言挙すわれ」(巻十三)

 小林先生は、宣長と一体になって、「言語の生態」の内側に入り込み、その感触を読者に手渡してくださいます。宣長から小林先生へ、小林先生から私たちへと手渡される「事」によって、そこに満ち溢れている「文」が、耳の奥にこだまし、心に刻まれます。それは、いつでも取り出して味わえることのできるしっかりした跡を残し、私も「言霊のさきはふ国」に生きているのだという喜びが湧き上がってきます。小林先生は、「『人に聞する所、もつとも歌の本義』という主題については、まだまだ変奏が書けそうな気がする」とこの章を結ばれました。この一文によって、冒頭で触れられた「宣命譜」の姿が、私の心に映し出されるような気がしました。言葉の連なりが呼び起こす、景色や匂い、肌触りや温度、喜びや悲しみ…、「言語に本来内在している純粋な表現力」をしっかり受けとめ、小林先生の文章から感じられる「文」を、想像力を働かせて味わって、次の第三十六章に歩みを進めていきたいと思います。

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