事務局ごよみ(19)
~~今月の「交差点」より~~
正宗白鳥と「想像力」、そして「漢意」
橋岡 千代
目に青葉 山ほととぎす 初かつを……皆さんも新緑の風を楽しんでいらっしゃることと存じます。
さて、今号の「交差点」には、三月の講義について金森いず美さん、福井勝也さん、田中純子さん、大江公樹さんにご感想をお寄せいただきました。
三月の「小林秀雄と人生を読む夕べ」では、第一部に小林秀雄先生が二十九歳のときに発表された「正宗白鳥」が、第二部では「『想像力』という言葉」が取り上げられました。
池田雅延塾頭は当講義のご案内文で、「小林先生は、白鳥の作品にも生き方にも見られる一種傍若無人なリアリズム、奇妙な投げやりに白鳥の天才を見、終生、満腔の敬意を抱いて親炙したのです」と書かれ、当日の講義では、どれほど小林先生にとって正宗白鳥の存在が大きかったかをお話しくださいました。
「交差点」で毎回おなじみの金森いず美さんは、正宗白鳥の生家のお近くに住んでいらっしゃるということもあって、今回の講義はことのほか待ち遠しかったとご感想を送ってくださいました。金森さんは、池田塾頭の、小林先生が正宗さんの生誕百年記念の講演会で岡山にいらっしゃったときの模様をききながら、晩年の正宗さんと小林先生の雑談について書かれた「ネヴァ河」の冒頭を思い出されたとお書きになっています。私塾レコダの講義を聴かれたあと、まさにそのお二人に会いに行くかのように正宗さんの生家跡に向かわれ、講義で巡らせられた感慨を正宗白鳥の作品「入り江のほとり」に託してしめくくられています。西風の凪いだ後の入り江の鏡のようなというのは、小林先生と正宗さんの遺された文学を見つめられる金森さんご自身の心だったのかもしれません。
また、福井勝也さんは、正宗白鳥に向けられた「傍若無人のリアリズム」は、その後、「『未成年』の独創性について」で小林先生がドストエフスキーにも使っていた言葉であることをご紹介してくださっています。この小林先生の眼力は、第二部の「『想像力』という言葉」にもつながっていきます。
「『想像力』という言葉」が取り上げられることを知って機敏に反応されたのは田中純子
さんでした。田中さんは、「想像力」とは「眼前にないもの、見えないものを見る力」であり、「人が生きていくうえでなくてはならないもの」としてこの言葉をずっと見つめていらっしゃいました。ところが、池田塾頭の講義で「小林先生の想像力」を聴かれるうちに、今までの漠然とした考えが変わられたそうです。さて、田中さんが気づかれたものとは……。
さらに田中さんは、池田塾頭が「想像」と「空想」とを混同してはいけない、と言われて、小林先生がある作家の作品に対して「空想というものは観念上の遊戯であり、想像力というものは作家の性格的な力なのだ」と仰ったことにも触れられています。
さて、「小林秀雄『本居宣長』を読む」第三十四章では、「言葉で作られた『物』の感知」ということを読みました。大江公樹さんのご感想から、「本居宣長」に出てくる「漢意」は、小林先生によって簡単に空理として読むことができますが、実際、私たちは生活に深く染着いてしまっていて気づかない「漢意」や、日本の文化として馴染んでしまっている「漢意」もあることを思わされました。
今回も、二つの講義から得られた思いをご感想にしていただきありがとうございました。
青葉の勢いに乗じて、また来月も身近な言葉から新しい発見や喜びの機会を重ねていきたいと存じます。みなさまもどうぞよろしくお願いいたします。
(了)