大江 公樹 <感想> 第三十六章 「人に聞かする所、もっとも歌の本義」

大江 公樹
 令和六年(二〇二四)五月九日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む>
 第三十六章 「人に聞かする所、もっとも歌の本義」

 講義の冒頭で池田塾頭は「小林秀雄を読むと元気になる」と述べられて、塾頭が学生時代から小林秀雄の著作を読み、そのつど元気をもらってきたといふお話をされました。塾頭とは比べ物にはなりませんが、私もそれに類する体験をしてをります。私は怠惰な性分なので、研究や仕事で疲れると、「今週の『本居宣長』講座はお休みしようか」といふ気にしよつちゆうなります。それでも何とか講座に出席しますと、学問にたいする姿勢を正されるやうで、不思議なことに講座が終はる頃には、「もつと頑張らねば」とエネルギーをもらへてゐるのです。私も毎日数ペイジでも、小林先生の著作を読むやうにしたいです。
 第三十六章で小林先生は次のやうに述べられてゐます。

 心の動揺は、言葉といふ「あや」、或は「かたち」で、しつかりと捕へられぬうちは、いつまでも得體の知れない不安であらう。言葉によつて、限定され、具體化され、客觀化されなければ、自分はどんな感情を抱いてゐるのか、知る事も感ずる事も出来ない。……「あはれ」を歌ふとか語るとかいふ事は、「あはれ」の、妄念と呼んでもいゝやうな重荷から、餘り直かで、生まな感動から、己れを解き放ち、己れを立て直す事だ。

 池田塾頭は、このくだりを、心と言葉の協調関係が言われた箇所と仰つてゐたやうに思ひますが、わが身にひきつけてしみじみと感じられました。例へば、私は怒りつぽい性格なので、時に相手に向けて怒つたメールを書くことがあります。ただ、送るのは翌日にしようと一晩寝て、さて読み返してみると、文面からは自分が怒つてゐるといふことはよくわかるが、なぜ怒つてゐるのかといふ肝心な部分はどうも伝はつてこない、何だか怒つてゐる自分がばからしいと感じることが殆どです。すると、自分はなぜ怒つてゐるのだらうかと自問することになり、考へを整理して文章を書き直したり、場合によつては怒るほどのことでもないと、送ることを止めたりします。「己れを立て直す」言葉のはたらきは、実に有難く、大切にしたいものだと思ひます。

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