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小林秀雄山脈の裾野散策(十三)
天才と努力
大島 一彦
令和七年六月三日、往年のプロ野球スター選手であつた長嶋茂雄が八十九歳で亡くなつた。続く日日、テレヴィジョンも新聞も、故人を追悼する番組や記事でその天才ぶりや魅力的な人柄を報じてゐたが、それらを見たり読んだりしてゐるうちに、ふと小林秀雄の言葉が脳裡に浮んで来たのは、或るとき池田雅延氏から次のやうな話を聞いて、長嶋を見る小林の眼を私が意識してゐたからである。
小林がまだ「本居宣長」を「新潮」に連載中、その係を担当してゐた池田氏が小林宅を訪ねたとき、小林は、宣長が云ふやうな意味での学問を今日やつてゐるのは長嶋と王(貞治)ぐらゐだらう、と云つたと云ふのである。勿論、これは譬喩的な云ひ方であつて、本来の学問とは、ただ文献を調べたり纏めたりして報告書を作ることではなく、長嶋や王のやうに、その道において倦まず撓まず努力と研鑽を積重ねて行く生き方なのだ、と云ひたかつたのであらう。
例へば、テレヴィジョンで、談話の相手から天才云云と云はれたとき、長嶋はかう答へてゐた――「僕は天才ぢやありませんよ。ただ努力はしましたよ。努力だけは怠りなく続けて来たと思つてゐます。」これを聞いて、すぐに私の頭に浮んだのは小林の次のやうな言葉である――「天才とは努力し得る才だ、といふゲエテの有名な言葉は、殆ど理解されてゐない。努力は凡才でもするからである。然し、努力を要せず成功する場合には努力はしまい。彼には、いつもさうあつて欲しいのである。天才は寧ろ努力を発明する。凡才が容易と見る処に、何故、天才は難問を見るといふ事が屢々起るのか。詮ずるところ、強い精神は、容易な事を嫌ふからだといふ事にならう。」(「モオツァルト」)
この言葉に照らすなら、やはり長嶋は天才であつた。但し努力は密かに続けられたのであつて、マス・メディアにはあまり披露されなかつた。努力の結果だけをファンに見せるのがプロ選手のけぢめだと心得てゐたからである。よく云はれることだが、長嶋のプレイする姿には花があつた。安打、本塁打、守備、走塁は無論のこと、空振りをしても、失策をしても、何か見る者を魅了するところがあつた。周知のやうに、長嶋は現役を引退してから、平成十六年三月に脳梗塞で倒れ、以後亡くなるまで半身不随を抱へることになつたが、そのリハビリテイションに努力する姿は結構マス・メディアに披露してゐた。そこには、自分が有名人であることを積極的に受止め、自分の努力する姿が同じ障碍に悩む人の励みになることを念ずる善意があつたやうだ。そのことはテレヴィジョンの談話で本人が語つてゐた。長嶋は最後まで努力を惜まない、向日性に富んだ、強い精神の持主であつた。小林が生きてゐたらさう評価しただらうと思ふ。
長嶋が亡くなつた翌日から、読売新聞に「長嶋茂雄物語」と云ふ記事が連載された。その第四回が特に印象深かつたので、採上げてみたい。
一九五八年、新人の長嶋は日本シリーズで西鉄のエイス、稲尾和久と対決することになつた。第一戦、マウンド上の稲尾の眼には打席の長嶋がただ「ボーッと立っているように見えた」と云ふ。「だが、勝負球として自信を持って投げ込んだ外角球は右翼線へとはじき返され、先制の三塁打となった。打者心理を読むのにたけていた稲尾」としては心外でならなかつた。西鉄は三連敗を喫するが、その間、稲尾は長嶋の打撃に注目し、長嶋が球質を読むと云ふやうな定石にとらはれず、「ボールに本能的に反応している」ことに気附いたと云ふ。
第四戦以降、稲尾は思ひ切つた手に出ることにした。「長嶋との対戦だけ、ノーサインで投げるようにしたのだ。長嶋の投球動作への反応を見て、体が開けばスライダーで引っかけさせ、踏み込んでくればシュートで詰まらせよう」と「瞬間的に(球の)握りを変えた」と云ふのである。稲尾はその「神業のような投球」で第四戦以降長嶋を十三打数二安打に封じ、ほぼ一人で投げ抜いて四連勝、西鉄を優勝に導いた。ここから稲尾の「鉄腕伝説」が生れた。但し長嶋も抑へ込まれただけでは終らず、第七戦、「巨人が0―6とリードされた九回、完封目前の稲尾からランニング本塁打を放ち、一矢を報い」た。
以上の件りを読んで私が思ひ出したのは、小林秀雄が「私の人生観」で宮本武蔵の観法について語つてゐた一節である。
「武蔵は、見るといふ事について、観見二つの見様があるといふ事を言つてゐる。細川忠利の為に書いた覚書のなかに、目付之事といふのがあつて、立会ひの際、相手方に目を付ける場合、観の目強く、見の目弱く見るべし、と言つてをります。見の目とは、彼に言はせれば常の目、普通の目の働き方である。敵の動きがあゝだとかかうだとか分析的に知的に合点する目であるが、もう一つ相手の存在を全体的に直覚する目がある。『目の玉を動かさず、うらやかに見る』目がある、さういふ目は、『敵合近づくとも、いか程も遠く見る目』だと言ふのです。『意は目に付き、心は付かざるもの也』、常の目は見ようとするが、見ようとしない心にも目はあるのである。言はば心眼です。見ようとする意が目を曇らせる。だから見の目を弱く観の目を強くせよと言ふ。」
この観の目と見の目の巧みな使ひ分けは、長嶋の打法でも稲尾の投法でも、見事になされてゐたと云つてよいのではないか。
新聞の同じ記事の続きで、王貞治が長嶋の打撃について、「二枚腰」から来る「球際の強さ」があつたと云つてゐ。球際は、球技で、ボールが処理出来るか出来ないかの際どいところを云ふ言葉ださうであるが、だとすると、球際の強さとは、最後まで諦めずにとことん球に喰らひついて行く粘り強さを云ふのであらう。その結果、「体勢を崩されても、ボールの芯とバットの芯を結び、球が野手のいないところに飛ぶ」のだと云ふ。南海の名捕手であつた野村克也も、長嶋の打撃は確かに天才的であつたが、「二枚腰の打撃は、努力から生まれたスイングスピードがあればこそだった」と評してゐたと云ふ。(因みに、当の長嶋自身は、バッティングの祕訣を問はれて、「投手の投げてよこす球にバットを当てることだ」と答へたさうである。あまりにも当り前な、あつけらかんとした答で、長嶋迷語録の一つとして笑話にもなつてゐるほどだが、同じ言葉でも、誰の口からどのやうな口調で語られるかによつて意味に深浅の違ひが生じることは、小林秀雄もどこかで云つてゐたと思ふ。)
小林は、宮本武蔵の「器用」と云ふことにも触れてゐる。
「彼は、青年期の六十余回の決闘を顧み、三十歳を過ぎて、次の様に悟つたと言つてゐる。『兵法至極にして勝つにはあらず、おのづから道の器用ありて、天理を離れざる故か』と。ここに現れてゐる二つの考へ、勝つといふ事と、器用といふ事、これが武蔵の思想の精髄をなしてゐるので、彼は、この二つの考へを極めて、遂に尋常の意味からは遥かに遠いものを摑んだ様に思はれます。器用とは、無論、器用不器用の器用であり、当時だつて決して高級な言葉ではない、器用は小手先きの事であつて、物の道理は心にある。太刀は器用に使ふが、兵法の理を知らぬ。さういふ通念の馬鹿々々しさを、彼は自分の経験によつて悟つた。相手が切られたのは、まさしく自分の小手先きによつてである。目的を遂行したものは、自分の心ではない。自分の腕の驚くべき器用である。自分の心は遂にこの器用を追ふ事が出来なかつた。器用が元である。……必要なのは、この器用といふ侮辱された考への解放だ。……『道の器用』は剣術に限らない。諸職の道にそれぞれ独特の器用がある。……」
「二枚腰」とか「球際の強さ」とか「スイングスピード」とか云ふ言葉を眺めてゐるうちに、これらが小林の説く武蔵の「器用」に何やら通じるところがあるやうに思はれて、以上の文を引用してみたのだが、どうであらうか。「二枚腰」も「球際の強さ」も「スイングスピード」も、長嶋の「努力し得る才」がもたらした持前の「器用」の具体的な現れではなかつたか。少くとも双方を重ね合せてそれぞれの「道の器用」に想ひを馳せてみるのも悪くないのではないか。
「天才は比類なき努力家であつた」と記者はこの記事を結んでゐるが、小林流に云ふなら、「比類なき努力家であり得たがゆゑに天才であつた」と云ふことになるのであらう。
(この項了)
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