事務局ごよみ(20)  言葉と心   入田 丈司

事務局ごよみ(20)
 ~~今月の「交差点」より~~
  言葉と心
入田 丈司  
 まもなく梅雨入りですが、先日までは、早くも夏の到来を思わせるような気候が続きました。
 今月は、お二人の方から講座「小林秀雄『本居宣長』を読む」第三十五章、第三十六章について、湿り気を吹き飛ばすような、熱の籠った投稿文が届きました。いずれも、言葉と人の心との関係は本来いかなるものなのか、について思いを巡らせられた文章です。
 第三十五章「初めにあやありき」の講義を受けて、金森いず美さんは、「宣命」という言葉について「ミコトノル」というその「事」を指し、今は伝わらない『宣命譜せんみょうふ』という古書が、「ミコトノル」その「読揚ざま、音声の巨細長短昂低曲節などを、しるべしたる物」であったこと、「宣命」という「事」が、「神又人の聞て、心にしめて感くべく、其詞にあやをなして、美麗ウルハシく作れるもの」であって、「『意より詞を先きとする』宣長の主張が、上代の人々の言葉の感触といかに固く結ばれていたか、上代の人々が何を大切にして言葉の世界に身を置いていたか」と、心に深く残る引用をされています。また大江公樹さんは、「宣命」は、「どんな内容を読み上げるかではなく、どういふ風に聴き取つてもらふかといふ語りを重視したもの」と池田雅延塾頭の言葉を引用されています。
 上代の人々は、言葉を音声や抑揚を含めた姿を真っ先に受けとめ、心に強く丁寧に響かせていたのでしょう。また、言葉というものは、現代の我々が思っているよりも、ずっと広く大きい姿をしているのでしょう。これは私の勝手な想像ですが、音楽の歌唱があれほど強く心に訴えかけてくるのは、言葉と音楽が元々は一つであったからかもしれない、とまで思わせられます。
 さらに、大江公樹さんは第三十六章「人に聞かする所、もっとも歌の本義」の講義を受けて、小林秀雄先生の次の文章を引用しています。
「言葉によつて、限定され、具體化され、客觀化されなければ、自分はどんな感情を抱いてゐるのか、知る事も感ずる事も出来ない。……『あはれ』を歌ふとか語るとかいふ事は、『あはれ』の、妄念と呼んでもいゝやうな重荷から、餘り直かで、生まな感動から、己れを解き放ち、己れを立て直す事だ」
 そして、これこそが「和歌」を詠むということだ、と。
 この「心と言葉の協調関係が言われた箇所」(塾頭の言葉)について、大江さんは「わが身にひきつけてしみじみと感じられ」ると述べていらっしゃいます。はい、私の経験でも、言葉には人の心を鎮め立ち直させる力があると確かに思います。
 まだまだ、言葉と心は尽きぬほどに奥深い関係があるように思います。
 一生のお付き合いをする「言葉」という親しき者に、今一度、礼を尽くして「身交ふ」ことは良く生きる事に必ず繋がる、と思っています。
(了)  

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