●金森 いず美
令和五年(二〇二三)六月一日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第二十九章 「古の実のありさま」は古語にこそ
「小林秀雄『本居宣長』を読む」六月のご講義では、第二十九章を読みました。私たちはどのように歴史に入ってゆけばよいのか。小林先生は、宣長が上代の人々の努力の内側に入って行ったその道筋を、糸をほぐすように辿って行かれます。その味わいは深く、何度も読み返すうちに、文章の奥にある、上代の人々の苦心、天武天皇の志、宣長の感情の波立ちが、私の心に触れます。「学問」とは何か。池田塾頭のご講義を受講し、宣長が実践した歴史との出会い方、そして、小林先生が私たちに表してくださる歴史との出会い方が、本当の「学問」なのだと教えられました。
今回、ご講義のあとに、池田塾頭に質問をさせていただきました。「口頭言語の曖昧な力」という言葉に、ふと足が止まったためでした。「一緒に考えてみましょう。」と池田塾頭がお答えくださり、口頭言語について、池田塾頭のお話を手掛かりに、じっくりと考えを廻らせました。口頭言語は話した瞬間から消えていき、頭脳や視力によってその形を留めることがありません。しかし、時に、発せられた言葉が心のひだに足跡を残し、その姿が心の眼にはっきりと映り、いつまでも留まることもあります。この、どちらにも振れる口頭言語のありようは、曖昧で不安定な、しかし、豊潤で広がりのある生きた姿にも見えます。「口誦のうちに生きていた古語が、漢字で捕えられて、漢文の格に書かれると、変質して死んで了う」という小林先生の言葉にも「直に人の口に言ヒ伝へ、耳に聴伝はり来ぬる」古語の生きた姿が感じられてきます。言葉に宿っている命、その命が伝統であり、私たち日本人の歴史そのものである。池田塾頭のお話を聴きながら、素性の確かな古語、話しことばを残そうとした天武天皇の強い思いも、この命を確かに手にしたからなのだと感じました。
この第二十九章で、小林先生は、私たちに、目に見えることだけを頼りにしてはいけない、そう仰っているように思えます。ご講義で池田塾頭がお話された、「学問」とは何か。目に見えることの奥にある、目に見えないものに心を重ね、誰もが知っていることをより詳しく深く考えてよく味わうこと、見過ごしている微妙な味わいを感じることを、私なりに実践していければと思います。
金森 いず美 <感想> 第二十九章「古の実のありさま」は古語にこそ
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