●金森 いず美
令和六年(二〇二四)五月九日
<小林秀雄「本居宣長」を読む>
第三十六章 「人に聞かする所、もっとも歌の本義」
五月の「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、第三十六章を読みました。「『人に聞かする所、もつとも歌の本義』という主題については、まだまだ変奏が書けそうな気がする」と結ばれた前章、その余韻が、私の記憶から様々な歌を呼び起こし、「歌とは何か」という問いに自ずと心が向かいました。
宣長が感じた歌の姿とは……。宣長は、「歌といふ物のおこる所」まで行き、その「本の心」をたずねます。「私達めいめいが自主的に行っている、言語表現という行為」の内側へ入っていく宣長の眼に、「本の心」はどのように映ったのだろうか。小林先生は、人間の心の働きと歌がほころび出る瞬間を宣長のそばで見つめ、私たちにこう語りかけられます。
心の動揺は、言葉という「あや」、或は「かたち」で、しっかりと捕えられぬうちは、いつまでも得体の知れない不安であろう。言葉によって限定され、具体化され、客観化されなければ、自分はどんな感情を抱いているのか、知る事も感ずる事も出来ない。(『小林秀雄全作品』第28集「本居宣長」p.59)
「あはれ」を歌うとか語るという事は、「あはれ」の、妄念と呼んでもいいような重荷から、余り直かで、生まな感動から、己れを解き放ち、己れを立て直す事だ。(同、p.59)
歌がおこる所は、歌人や歌学者といった限られた人々のうちにあるのではなく、極く普通の人間の、誰もが体得している日常の経験と言語表現のうちにあるのだと気付かされました。出来合いの子守唄でさえ、幼い頃の記憶とともに、私の心に、母の「あや」、母の「かたち」として、しっかりとその姿が刻まれています。歌を詠むという行為であればなおさら、私たちの深い感情の底からほころび出るその「あや」や「かたち」は、宣長が言うように、他の誰のものでもない、誰にも真似が出来ない、作者だけの心の姿を映し出しているに違いありません。「あや」を「詞」に仕立て、心の動揺から「己れを立て直す」、我々の自然の言語表現である詠歌は、師匠から弟子へ技術を伝授するものでもなく、ましてや学者のさかしらの関わるところではない。どこまで行っても「身一ツ」の道である。そんな当たり前のことに、なぜ誰も気付かないのか。小林先生の文章を何度も読むうちに、宣長の思いが、私の心にだんだんと滲んでくるように感じられました。
ご講義では、小林先生の文章は、読む者の身体に元気をもたらすという話題になり、「小林秀雄全作品」の内容見本に寄せて齋藤孝さんが書かれた「小林秀雄の効き方」という文章を、池田塾頭がご紹介くださいました。心から湧き出る言葉を、これだ、というところまで工夫を重ね作り上げられた小林先生の文章、その文章を全身で受け止めることで、生きる力が湧いてくる。そのことを齋藤孝さんは身体論から述べられ、「小林秀雄の文章を声に出して読み、語り口を一度手にすると胆力になります」と書かれたそうです。このお話を聞き、私も大いに共感しました。小林先生がおっしゃった、「僕が書いているのは散文ではない、僕は詩を書いているんだ」という言葉には、詩として読んでほしいという思いだけではなく、「あや」としての「言葉」のやりとり、つまり詩心での交わりが私たちに生きる活力を与え、詩心で結ばれた深い信頼が健やかな人間の共同体を作っていく、そのことを身をもって感じてほしいという願いも込められているのではないだろうか……。小林先生が「身一ツ」で書かれた文章に、私の「身一ツ」の詩心を以て応じる、そのことを日々続けていきたいと、今回のご講義を聴き、強く感じました。
金森 いず美 <感想> 第三十六章 「人に聞かする所、もっとも歌の本義」
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