小林秀雄「本居宣長」を読む(二十九)
第十六章 准拠のこと
池田 雅延
1
第十六章は、次のように始められます。
――「蛍の巻」の中の源氏と玉鬘との会話に、宣長が、式部の物語観を執拗に読み取ろうとした事は、既に書いたが、会話中の源氏の一番特色ある言葉を、ここでもう一度思い出してみるのもよいと思う。……
そしてその、一番特色ある言葉、とは、
「(元来物語というものは/小林注記)神代よりよにある事を、しるしをきけるななり、日本紀などは、たゞ、かたそばぞかし、これら(物語/小林注記)にこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ」
であり、
――この、源氏が「たはぶれての給ふ」言葉の裏面に、作者の物語に関する自信が隠れている、と宣長は解した。式部にしてみれば、そうでもするより他致し方がなかった、まともに自信を語るわけにはいかない、それほど式部の物語についての基本的な考え方は、当時の常識とは異なっていた、そう宣長は解した。では、冗談の衣を脱がせてみれば、源氏君の言葉から、どんな意味合が現れるか。宣長は、註釈の上で、そこまで書かなかった。が、それは、彼に充分に感得されていたであろう。……
そう言って小林先生は、自分自身のこの言葉を次のように受けます、
――私は、彼の「源氏」論を、その論理を追うより、むしろその文を味う心構えで読んだのだが、読みながら、彼の文の生気は、つまるところ、この物語の中に踏み込む、彼の全く率直な態度から来ている事が、しきりに思われた。……
論理を追うより、文を味わう心構えで読む……、これこそは昭和初年の若き日、文壇に打って出た「様々なる意匠」以来一貫して変ることのなかった小林先生の「文章の読み方」なのであり、「本居宣長」の全五十章も宣長の「源氏物語」論だけでなく「本居宣長全集」の全文をこの心構えで読み味わって書かれているのですが、宣長の「古事記伝」の生気もまた「古事記」の神代の伝説に踏み込む宣長の率直な態度から来ていると何度も感じられたことでしょう。憚りながら私池田も小林先生に学び、先生の「本居宣長」を論理を追うより文を味わう心構えで読んでいます、そのため先生の文を私なりに程よく区切り、一言半句も疎かにしないで写し取りながら読み進めていますとこの機会におことわりして第十六章に戻ります。
――言うまでもなく、宣長は、「蛍の巻」の物語論に着目した、最初の「源氏」研究者であったが、彼が現れるまで、「蛍の巻」を避けて、八百年の歳月が流れた、とは今日から思えば不思議な事である。……
たとえば『大辞林』には、「源氏物語」は平安時代の長保三年(西暦一〇〇一年)から寛弘二年(一〇〇五年)の頃に書き始められたと言われていますが、全五十四帖が完成した時期は詳らかでなく、一方、本居宣長が「源氏物語」の「蛍の巻」に注目した「紫文要領 巻上」は江戸時代の宝暦十三年(一七六三年)に成っています。
ともあれ、宣長は言います、
――「我が国には、物語という一体の書有て、他の儒仏百家の書とは、又全体類のことなる物也。――世にありとある、よき事あしき事、めづらしき事おもしろきこと、おかしき事あはれなることの、さまざまを、しどけなく女もじにかきて、絵をかきまじへなどして、つれづれのなぐさめによみ、又は心のむすぼゝれて、物思はしきときの、まぎらはしなどにするもの也」(「紫文要領」巻上)。……
これに続けて、小林先生は言います、「玉の小櫛」は「紫文要領」から約三十年経って書かれた宣長の註釈書「源氏物語玉の小櫛」です。
――「玉の小櫛」では、「中むかしのほど、物語といひて、一くさのふみあり」と書かれている。「一体の書」とか、「一くさのふみ」とか、まことに曖昧な書ざまであるが、文学史研究の進んだ今日でも、当時昔物語とか古物語とか言われていたものの性質が、格別明瞭になったとも言えないであろう。……
――式部と同時代の人の簡明な言葉によれば、「物の語と云て、女の御心をやる物也」(「三宝絵」序)とある。「御心」と敬語を使ったのも、宮廷で女房達が姫達を相手に昔話をしているうちに、物語は、次第に洗練され、形を整えるに至った事情に立っているだけの話で、つづいて、「大荒木の森の草よりしげく、荒磯の浜の真砂より多けれど」と、侮蔑的口吻になる。文学以前に属する女性のおしゃべりなど、幾つあっても、やがて消え去るのは、当然の事と考えられていたであろうし、事実、その大部分は消滅して、私達に遺されているのは、「絵合の巻」に言う「物語の出で来はじめの親なる竹取の翁」以下若干の筆録に過ぎない。それとても、文学という概念の内容が漢詩文の解読にあった当時の知識人の眼には、女房が物語の為に利用した話の筋書程度のもの、と映っていたと考えてもよいであろうし、まして口上手の女房によって、これらの筋書が、どんな生気を得たかに至っては、私達に知る由もない事だ。それはともかく、この文学の埒外にあった物語の世界から、型の上ではこの世界を踏襲しつつ、「源氏物語」という劃期的な文体を持った物語文学が、一女房の手によって突如として創作されたという事が、後の文学研究者達に、面倒な問題を残した。……
――「更級日記」の作者は、少女時代、「叔母なる人」から「源氏五十余巻」をもらい、「一の巻よりして、人もまじらず、几帳のうちに、うち臥して、ひき出でつゝ見る心地、后の位も、何にかはせん」と言ったが、そのような無邪気だが真率な鑑賞に、この物語の流布の原動力があった事は、まず間違いあるまい。作者など問題にもならぬ物語の直接の魅力には、男も女も抗する事は出来なかったようである。作者は何者かという考えが浮んで来ても、「さてもこの源氏作り出でたることこそ、思へど思へど、この世一つならずめづらかにおもほゆれ。誠に仏に申し請ひたりける験にや、とこそ覚ゆれ」(「無名草子」)と言ってみるのが、考えの行き詰りで、そこから引返して、あわれとか、めでたしとか、作中人物の品定めをやっているに過ぎない。……
「無名草子」は鎌倉時代の建久七年(一一九六)から建仁二年(一二〇二)の頃に成ったと見られているわが国最古の物語論で、わけても筆者は「源氏物語」に力を入れているのですが、
――俊成女作と伝えられた「無名草子」は、「源氏」評論の最も古いものとされているが、これは「源氏」が現れてから二百年経っても、批評は一向進歩していない事を語っている。だが、それよりもむしろ批評なぞ少しも必要としない愛読者が、少くとも宮廷の周囲には、幾らいたかわからぬ事を、暗に語ってもいるであろう。拙い評論が現れた事より、誰が言い出したものともわからぬ、所謂紫式部堕地獄伝説が、源平大乱の頃には、既にはっきりした形に出来上っていたという事の方が、余程大事な事と思われる。上流男女の乱脈な交会の道を、狂言綺語を弄して語った罪により、作者は地獄の苦患に在るのは必定であるから、供養をしてやらねばならない、このような考えが、いつの間にか形成されたという事は、時代の通念に従い、婦女子の玩物として、「源氏」を軽蔑していながら、知らぬ間に、その強い魅力のいけどりになっている知識人達の苦境を、まことに正直に語っているからだ。……
――「源氏」についての、まともな文学上の評価は、俊成の有名な歌合判詞、「源氏見ざる歌詠みは、遺恨の事なり」から始まったと言われるが、彼が「源氏」に動かされて、苦境に立たなかったのは、歌道という堅固な防壁のうちに居たからだ。無論、防壁などと、彼自身夢にも考えていたわけはない。わが国の正統文学の指導者を以て任じていた人に、たまたま「源氏」が目にとまったというに過ぎない。……
ここで言われている「俊成」は藤原俊成で、平安時代の末期から鎌倉時代初期にかけての歌人、歌学者ですが、通説では源平合戦さなかの寿永二年(一一八三)二月、後白河法皇の院宣が俊成に伝達され、俊成は文治三年(一一八七)九月ないし四年四月に七番目の勅撰集「千載和歌集」を撰進して奏覧しました。
――王朝文化総崩れの期に際し、「古今」以来の勅撰集の流れに、新生命を吹込もうと、心を砕いていた俊成の審美眼は、ひどく気難かしいものであったが、「源氏」の高度の文体は、これに充分に答えるものと見えた、ただそれだけの事であった。低級な物語の類いのうち、何故「源氏」だけが格別なものなのか。何故、作者は、日常生活の起伏を物語るのに、あれほど精緻な文体を必要としたのか。この種の疑問は、俊成には、少しも必要ではなかった。詠歌の資料として、歌学の参考書として、「源氏」が部分的に利用出来れば、足りたのであった。言うまでもなく、定家も父親の流儀に従ったのであり、当時の歌宗によって始められたこの「源氏」評価の流儀は、宣長が、「今世中に、あまねく用ふるは湖月抄也」(「玉のをぐし」一の巻)と言った、江戸期の「湖月抄」まで続くのである。……
「湖月抄」は「源氏物語」の註釈書で全六十巻、北村季吟が古註を集大成し、延宝元年(一六七三)に成っていました。
――武家の世となり、宮廷は衰微し、和歌も堂上風御家風という事で、少数貴族仲間の、内輪のすさび事として、いよいよ固定したものになれば、その参考書も、これに準ずるわけで、やがて「古今伝授」が現れる勢いになれば、「源氏伝授」が言われるようにもなる。もはや婦女子の玩物どころではない。伝授にもあずかれぬ婦女子には、読めもしない遥かなる古典である。公家達が宮廷の盛事をしのぶには、「源氏」を見るのが第一という事になれば、研究註釈が要る。そうなれば、狂言綺語どころの段でもない。「源氏」は、すべて故事来歴を踏まえた物語である。たとえ怪し気なところがあっても、例えば「花鳥余情」の作者のように、「か様な事は、国史なども、記し落す事もありぬべし。この物語に書ける上は、疑ふべきにあらず」とまで言う事になる。それが、旧註時代にやかましく言われた、此の物語の所謂「准拠説」というものの正体であった。嘗つて、「更級日記」の作者は、「光るの源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめ」と希ったが、身勝手な動機を物語のうちに持込む点では、公家達の准拠説もさして変りはない。この物語のうちに、歌の情趣を拾う事とは別に、作者は何が物語りたかったかが気になっても、「君臣の交仁気の道、好色の媒菩提の縁にいたるまで、これをのせずにいふ事なし」 (「河海抄」)と言った類いの事しか考えられない。これも准拠説の一種なのである。諸抄の著者達は、自分達の教養上の通念を、物語に投影して、物語の登場人物達の言行の意味合の准拠を、儒書仏典に求めたに過ぎない。……
「准拠」とは、「ある事をよりどころとして、それにしたがうこと。また、よりどころとなる事柄」と『大辞林』にありますが、「河海抄」は初期の「源氏物語」研究を四辻善成が集大成した注釈書で、全二十巻、南北朝時代の貞治年間(一三六二~六八)に成ったと見られています。
――「雖二狂言綺語一鴻才所レ作、仰レ之 弥高、鑽レ之弥堅」(「明月記」)と定家は、「源氏」を評して書いた。まことに「狂言綺語」という通念は牢固たるものであった。先ずこの観念を、何とか始末しなければならない。狂言綺語と見えるもののうちにも、歌道の妙趣は見分けられるし、准拠した史実も発見出来るという風に、通念の合理的な処理を考えなければ、作者の鴻才を発見し、これを合理的に評価する事は出来なかったのである。では、狂言綺語を、「たゞ、いと、まことの事とこそ、思ひ給へられけれ」と言った玉鬘の、無邪気に口ごもった「源氏」鑑賞法は、何処に行って了ったか。何処へも行きはしなかった。「源氏」の原本が存する限り、いつでも黙って、これに連添っていただろう。恐らく、「源氏」研究者達の心の一隅に押込められても、其処に存したであろう。ただ、玉鬘の言葉を、「君子はあざむくべし」と評した宣長に、拾い上げられるのを待っていただけの話だ。「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへを語るを、くはしく聞クにひとし」(「玉のをぐし」二の巻)という宣長の言葉は、何を准拠として言われたかを問うのは愚かであろう。宣長の言葉は、玉鬘の言葉と殆ど同じように無邪気なのである。玉鬘は、「紫式部の思へる心ばへ」のうちにしか生きてはいないのだし、この愛読者の、物語への全幅の信頼が、明瞭に意識化されれば、そのまま直ちに宣長の言葉に変ずるであろう。……
2
――さて、「源氏」旧註で行われて来た所謂准拠説を、宣長はどう考えたかを、見てみよう。……
――「此物語は、さらに跡かたもなき事を作りたる物なれ共、みなより所ありて、現に有し事になぞらへてかける事多し」、それを考えてみるのが准拠の説なのであるが、更によく考えてみれば、「およそ准拠といふ事は、たゞ作者の心中にある事にて、後に、それを、ことごとく考へあつるにもをよばぬ事なれ共、古来沙汰有事ゆへ、其おもむきを、あらあらいふ也。緊要の事にはあらず」(「紫文要領」巻上)。准拠の説について、このようにはっきりした考えを持つ事は、誰にも出来なかったのである。契沖も真淵も、「湖月抄」の自由な批判から、「源氏」に近附いたのだが、そこまで言切る事は出来なかった。だが、宣長が、思い切ってやってのけた事は、作者の「心中」に飛込み、作者の「心ばへ」を一たん内から摑んだら離さぬという、まことに端的な事だった。宣長は、「源氏」を精しく読もうとする自分の努力を、「源氏」を作り出そうとする作者の努力に重ね合わせて、作者と同じ向きに歩いた。「およそ准拠といふ事は、たゞ作者の心中にある事」とは、その歩きながらの発言なのである。……
――彼は、在来の准拠の沙汰に精通していたし、「河海抄」を「源氏」研究の「至宝」とまで言っているのだし、勿論、頭からこれを否定する考えはなかったが、ただこの説を、「緊要の事にはあらず」と覚ったものがいなかった事は、どうしても言いたかったのである。註釈者達が物語の准拠として求めた王朝の故事や儒仏の典籍は、物語作者にすれば、物語に利用されて了った素材に過ぎない。ところが、彼等は、これらを物語を構成する要素と見做し、これらで「源氏」を再構成出来ると信じた。宣長が、彼の「源氏」論で、極力警戒したのは、研究の緊要ならざる補助手段の、そのような越権なのである。外部に見附かった物語の准拠を、作者の心中に入れてみよ、その性質は一変するだろう。作者の創作力のうちに吸収され、言わば創作の動機としての意味合を帯びるだろう。宣長が、「源氏」論で採用したのは、作者の「心ばへ」の中で変質し、今度は間違いなく作品を構成する要素と化した准拠だけである。彼のこのやり方は徹底的であった。……
――手近な「蛍の巻」の会話を見ても、例えば、源氏君の会話のうちにある「方等経」という准拠は、玉鬘に理解出来る限りでの、又、源氏君の物語論につながる此の物語の「本意」を照明する限りでの「方等経」であって、其他の意味合は、きっぱりと拒絶されている。更に、宣長は、ここで「日記」に現れた、式部の「気質」という准拠をあげているが、その扱い方は、慎重であって、それも言わば彼が直覚した、物語の「本意」全体から照らされて初めて浮び上ってくる。「日記」を書いたのも、「物語」を書いたのも、なるほど同一人物だが(宣長はそう認めた)、「物語」に現れた作者の「心ばへ」は、「日記」に現れた式部の気質の写しではない。要するに、従来の准拠の説に対する宣長の抵抗は、「跡かたもなき」式部の物語の世界は、彼女の「現に有し」生活世界を超えたものだ、という強い考えの上に立つ。「日記」によれば、式部は非常に意識的な生活者であったし、自分の気質も、反省によって知悉していた。だが、そういう反省的事実も、物語作者としては、直ちに物語が発する源泉とは、認めるわけにはいかないだろう。そういう所で、宣長は、言語表現という問題に直面せざるを得なかった。この大きな問題には、いずれ、又先きで触れねばならない。というより、むしろ問題は、宣長の仕事とともに発展するので、又しても、其処に立ちかえらなければならないという事になろう。……
――ここでは、宣長の視点が、作者の創作動機のうちにあった事が、しっかり納得出来ればよい。式部が、創作の為に、昔物語の「しどけなく書ける」形式を選んだのは、無論「わざとの事」だった。彼女は、紫の上に仕える古女房の語り口を演じてみせたのだが、恐らくこの名優は、観客の為に、古女房になり切って演じつつ、演技の意味を自覚した深い自己を失いはしなかった。物語とは「神代よりよにある事を、しるしをきけるななり」という言葉は、其処から発言されている、言わば、この名優の科白なのであって、これを動機づけているものは、「史記」という大事実談が居坐った、当時の知識人の教養などとは何の関係もない。式部は、われ知らず、国ぶりの物語の伝統を遡り、物語の生命を、その源泉で飲んでいる。……
――物語は、どういう風に誕生したか。「まこと」としてか「そらごと」としてか。愚問であろう。式部はただ、宣長が「物のあはれ」という言葉の姿を熟視したように、「物語る」という言葉を見詰めていただけであろう。「かたる」とは「かたらふ」事だ。相手と話し合う事だ。「かた」は「言」であろうし、「かたる」と「かたらふ」とどちらの言葉を人間は先きに発明したか、誰も知りはしないのである。世にない事、あり得ない事を物語る興味など、誰に持てただろう。そんなものに耳を傾ける聞き手が何処に居ただろう。物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成立つものでなければ、物語は生れもしなかったし、伝承もされなかったろう。語る人と聞く人とが、互に想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合や価値を、言葉によって協力し創作する、これが神々の物語以来変らぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中に立った。これを信ずれば足りるという立場から、周囲を眺め、「日本紀などは、たゞ、かたそばぞかし」と言ったのである。ここで言われる「日本紀」とは、無論、やがて六国史となる正史、「紀」でもあり「道」でもある「日本書紀」を指す。「これら(物語/小林注記)にこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ」、――「道々しき」とは、「三史五経の道々しきかた」(「帚木」)という用例に従って解して置けば、よいのだが、もし、周囲の知識人の世界が、彼女の極めて自然な情に、その人為的に歪められた姿を映し出していなければ、式部には、そんな反語めいた物の言い方をする必要は、少しもなかったのである。……
第十六章は、ここまで言って閉じられます。
しかし……、後日談があるのです。
3
小林先生の「本居宣長」は昭和五十二年十月三十日、単行本となって新潮社から出ましたが、単行本の刊行直後と言ってよい昭和五十二年十二月、先生は新潮社のPR雑誌『波』の五十三年一月号に書かれた「感想」で、次のように言いました。
――「紫文要領」の中に、「准拠の事」という章がある。文芸作品の成り立つ、歴史的、或は社会的根拠です。今日の言葉で言うなら、文学が生れて来る歴史的、社会的条件を明らかにする事、これは何も今日始った事ではない。昔から、文学研究者は気にかけていた事だ。それを、宣長は、そのような問題は詰らぬ、私には、格別興味のある事ではないとはっきり言った。どういう言葉で言ったかと言うと、「およそ准拠といふ事は、たゞ作者の心中にある事にて」――。いろいろの事物をモデルにして、画家は絵を描き、小説家は小説を書く。その時、彼等が傾ける努力、それは、彼等の心中にあるではないか。物語の根拠というものは、ただ紫式部の心の中だけでほんとうの意味を持つ。物語の根拠を生かすも殺すも式部の心次第なので、その心次第だけに大事がある、と宣長は、はっきり言う。このような思い切った意見を述べた人は、誰もいなかった。……
「本居宣長」の単行本は菊判六〇〇頁で定価四〇〇〇円、定価一〇〇〇円の小説本を一万部売るさえ容易でなかった時代に令和の今なら八〇〇〇円から一〇〇〇〇円にも相当しようかという本がたちまち増刷を重ね、翌年の夏前には累計一〇万部に達しました。小林先生がこの売行きを悦ばれたことは言うまでもありませんが、先生としてはこうして多くの読者が読んでくれるからこそ宣長のためにも先生自身のためにも、「およそ准拠といふ事は、たゞ作者の心中にある事にて」と真っ先に言っておきたいと思われたのです。ということは、小林先生が「本居宣長」に限らず先生の文中に溶かしこまれている先人の著作や名言はすべて、先生の執筆動機によってそこに招かれ、先生の心の熱を帯びて読者を迎えています、すなわち先生の心次第だけに大事があるのです。にもかかわらずそこを早呑み込みして准拠あさりに奔走し、典拠典拠と鬼の首を取ったかのように吹聴する学者や研究家がけっこう見られるのです、そこでこういう心得違いは軽薄千万、迷惑至極と、小林先生は宣長とともに、紫式部とともに、釘を刺されたのです。
(了)