小林秀雄「本居宣長」を読む(三十)

小林秀雄「本居宣長」を読む(三十)
第十七章
 光源氏の品定め
池田 雅延  
         

 第十七章は、冒頭いきなり、「源氏物語」の「帚木ははきぎ」の巻から引かれます。
 ――「光源氏、名のみことごとしう(名前だけは立派だけれども/池田註記、新潮日本古典集成版『源氏物語』による、以下同、言ひ消たれたまふとが(人からけなされるよからぬ行い)おほかなるに(多いようだのに)(源氏自身も/小林先生注記『いとゞ、かゝるすきごとどもを(こんな浮気沙汰を)、末の世にも(後世の人たちも)聞きつたへて、かろびたる名をや流さむ(かるはずみな人物だという評判を後々までも残すことになろうか)』と、忍び給ひけるかくろへごと(内緒ごと)をさへ、語りつたへけん(語り伝えた)(世の)人の物言ひさがなさよ(人々のおしゃべりの何とたちの悪いことでしょう)。さるは(とはいうものの)、いといたく世をはゞかり、まめだち給ひけるほど(まじめにと心がけられていたので)、なよびかに(色めいて)、をかしきことは(風情のあるお話なんかは)なくて、(例えば/小林注記交野かたのの少将(の如き昔物語の好色家/小林注記には、笑はれ給ひけんかし」……
 そして、これを承けて次のように言われます。
 ――「帚木ははきぎ」の冒頭に出て来る、この唐突にも見え、曖昧にも見える(中略)文を、「見るに心得べきやうある也」として、初めて注目したのは宣長であった(「玉のをぐし」五の巻)。「蛍の巻」の源氏とたまかずらとの会話に、「物語の大綱総論」を読み取ったのと同じ性質の彼の注意力が、ここにも働いた。文の内容は、源氏の元服げんぷく、結婚までを語った「桐壺きりつぼ」には関係のないもので、「源氏ノ君の壮年のほどの事を、まづとりすべて、一つに評じたる」、その恋物語の「序のごとき」もの、皆、これから先きの巻々で物語ろうとする事柄を指す、そこが、「見るに心得べきやうある」ところだ、と宣長は言う。……
 続いて、
 ――「語りつたへけん、人の物言ひさがなさよ」と言っているのだから、当時、既に、語り伝えられた源氏の物語があった、と解するのが自然であり、「河海抄かかいしょう」の作者もこれに注意していた事は、勿論もちろん、宣長の念頭にあった筈だが、此の物語の所謂いわゆる准拠とは、すべて「たゞ作りぬしの心のうちにある事」という宣長の信念は、ここでも動かなかった。素早く見抜かれたのは、やはり作者の「下心」、今まで誰一人思いも及ばなかった仕事の難かしさを、よく知った作者の「心ばへ」であった。式部は、古女房に成りすまして語りかける、――光源氏の心中も知らぬ「物言ひさがなき」人の言うところを、真に受けてくれるな、「をかしき方」に語られた「交野少将」並みの人物と思ってくれるな、源氏という人を一番よく知っている自分の語るところを信じて欲しい、――宣長は、古女房の眼を打ち守る聞き手になる。源氏という人間につき、作者が聞き手の同意を求めて、親しげに語りかけ、聞き手と納得ずくで遊ぶ物語という格別の国を作ろうと言うのなら、喜んで、その共作者になろうと身構える。……
 ――何故、このような事を、繰り返し書くかというと、「源氏」による彼の開眼は、彼が「源氏」の研究者であったという事よりも、先ず「源氏」の愛読者であったという、単純と言えば単純な事実の深さを、繰り返し思うからだ。「帚木」発端の文を、「物語一部の序のごときもの」と言う宣長の真意は、この文の意味を分析的に理解せず、陰翳いんえい含蓄がんちくとで生きているようなこの文体が、そっくりそのまま、決心し、逡巡しゅんじゅんし、心中に想い描いた読者に、相談しかけるような、作者の「源氏」発想の姿そのものだ、というところに根を下している。更に言えば、この文の表現構造は、源氏という物語の主人公を描き出す、作者の技法の本質的なものを規定していて、それが、宣長の、源氏という人物の評価に直結している事を思うからである。……
 
         

 こうしてここまで第十七章を書き写してきた私の脳裡に、またもや小林先生のあの言葉が浮かびました。昭和四十二年四月、『婦人公論』に載った、作家永井竜男氏との対談「芸について」のなかの言葉です、次のように言われていました、
 ――ぼくがこんど宣長さんを書いていて、すっかり休んじゃっているというのも、簡単な理由なんですよ。宣長が、あんなによく「源氏」を読んだでしょう。「源氏」をよく読まないで、あの人の「もののあはれ論」がどうのこうの言ったって、こんな恥ずかしいことはないですよ。……
 昭和四十年の六月号から『新潮』で始められた「本居宣長」の連載は、同年九月号の第四回までは毎月掲載されていましたが、これに続いた第五回は一と月おいて四十年の十一月号となり、四十一年一月号の第六回、二月号の第七回以後、同年十月号の第十一回までほぼ隔月で掲載された後に第十二回が掲載されたのは四十二年四月号でした。連載開始後一年四か月にして五か月の休載が続いたのです。
 永井氏との対談で「こんど宣長さんを書いていて、すっかり休んじゃっている」と言われているのはこの五か月に及んだ休載を指してのことなのですが、「本居宣長」の連載は第十一回で第十一章を書き上げるやいよいよ「本居宣長」第一の山場、宣長の「源氏物語」論と向き合うときがきていました。このときにあたって先生は、敢えて五か月、筆を止めたのです。永井氏との対談で言っているように、「源氏物語」を原文で読み直す、という以上に「源氏物語」の原文を宣長の眼で読み込む、これこそが不可避と痛感したからです。かくして先生は、「本居宣長」の第十七章に記されたとおり本居宣長という「空前の『源氏物語』読者」と行き逢いました、今一度、ここにその邂逅場面を掲げます、
 ――宣長は、古女房の眼を打ち守る聞き手になる。源氏という人間につき、作者が聞き手の同意を求めて、親しげに語りかけ、聞き手と納得ずくで遊ぶ物語という格別の国を作ろうと言うのなら、喜んで、その共作者になろうと身構える。……
 ――何故、このような事を、繰り返し書くかというと、「源氏」による彼の開眼は、彼が「源氏」の研究者であったという事よりも、先ず「源氏」の愛読者であったという、単純と言えば単純な事実の深さを、繰り返し思うからだ。「帚木」発端の文を、「物語一部の序のごときもの」と言う宣長の真意は、この文の意味を分析的に理解せず、陰翳いんえい含蓄がんちくとで生きているようなこの文体が、そっくりそのまま、決心し、逡巡しゅんじゅんし、心中に想い描いた読者に、相談しかけるような、作者の「源氏」発想の姿そのものだ、というところに根を下している。更に言えば、この文の表現構造は、源氏という物語の主人公を描き出す、作者の技法の本質的なものを規定していて、それが、宣長の、源氏という人物の評価に直結している事を思うからである。……
 先生のこの発明は、先生自身が昭和八年、三十三歳で始め、五十歳の年まで全身全霊を打ち込み続けた「カラマアゾフの兄弟」などのドストエフスキーの作品論以来、片時もゆるがせにしなかった「愛読者の心と想像力」、これがあったからこそだと、私は強く、今さらのように強く思いました。
 そのドストエフスキーの作品論の掉尾を飾り、後に先生自らこれが最もよく書けていると言った「『白痴』についてⅡ」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第19集所収)の中で、先生は次のように言っています。「イポリット」は「白痴」に登場している十八歳の肺病患者で、当時のロシアの若い世代を捕えていたニヒリズムの風潮のうちにあり、何ものも信じない喜びのうちに生きていますが、そのイポリットの「わが必要なる告白」というかなり長い挿話を克明に辿っていくなかで先生は言います、
 ――私は、イポリットの告白を勝手に再構成している。幾度も読んでいるうちに、自ら頭の中に出来上ったところを、本文も殆ど参照せずに書いている事をお断りして続けよう。扨て、告白は続く。……
 私池田は、「本居宣長」を読んでいて、第十七章で、
 ――(宣長は/池田註記源氏という人間につき、作者が聞き手の同意を求めて、親しげに語りかけ、聞き手と納得ずくで遊ぶ物語という格別の国を作ろうと言うのなら、喜んで、その共作者になろうと身構える。……
 と言われ、
 ――「源氏」による彼の開眼は、彼が「源氏」の研究者であったという事よりも、先ず「源氏」の愛読者であったという、単純と言えば単純な事実の深さを、繰り返し思うからだ。……
 と言われるに至って、先生の言う「愛読」とはと自問するや、たちどころに「イポリットの告白」が思い浮かび、先生は宣長の「源氏物語」論「紫文要領」を読んでありし日の自分自身に出会われた、どこまでもドストエフスキーの研究者ではなく、愛読者であった自分自身に出会われたにちがいないと確信したのです。

 しかも宣長の愛読は、「源氏物語」にとどまらず、「古事記」に及んでもひたむきでした。小林先生は第四十二章で言っています、
 ――「古事記」の「訓法ヨミザマの事」の場合にも、既に同様な事が見られたので、(中略)「古事記伝」のみは、まさしく、宣長によって歌われた「しらべ」を持っているのであり、それは、「古語のふり」を、一挙にわが物にした人の、まがう方ない確信と喜びとにあふれている。そういう処で、何かが突破されているという感じを、誰も受ける。この感じは、恐らく正当なものであって、古語の学問的研究と、「古語のふり」を生きてみる事との間には、一種言い難い隙間があり、それを、宣長自身、誰よりも明瞭に、意識していた、と見ていいと思う。古語に関する諸事実は、出来得る限り、広くくわしく調査されたわけだが、これらとの、長い時間をかけた、忍耐強い附き合いは、実証的諸事実を動員しての、ただ外部からの攻略では、「古事記」は決して落ちない事を、彼に、絶えず語りつづけていただろう。何かが不足しているという意識は、次第に鋭いものになり、遂に、仕事の成功を念ずる一種の創作に、彼を促すに至ったであろう。その際、集められた諸事実は、久しく熟視されて、極めて自然に、創作の為の有効な資料と変じなかっただろうか。……
 ここから逆戻りして推察すれば、「源氏物語」の愛読者としての宣長は、「もののあはれのふり」をわが物として生き、まがう方ない確信と喜びとにあふれていた、そういう処で、何かが突破されていた……、とも言えるのではないでしょうか。

         

 そしてまた、「源氏物語」の語り手である古女房の「光源氏の品定め」です。
 ――女房は、なお、念でも押すような語り口で、つづける。「――さしも(そんなふうに/池田註記、新潮日本古典集成版『源氏物語』による、以下同あだめき、目馴めなれたる(移り気で、ありふれた)、うちつけの(行き当たりばったりの)すきずきしさ(浮気っぽさ)などは、このましからぬ(性に合わない)本性ほんじやうにて、まれには、あながちに(強引に)(本性を/小林先生注記引きたがへ、心づくしなる事(気苦労の多い恋)」を、御心におぼしとゞむる癖なん(お心に思いつめなさる一風変ったところが)、あやにくにて(あいにくとおありで)、さるまじき御ふるまひも(かんばしくないご所行も)、うちまじりける(ないではなかった)」――あなた方の「目馴れた」昔物語の主人公とは、恐らく大変違った人間を語る事になるだろうが、既に、「桐壺」でほのめかして置いたように、彼の恋物語は、暗いと言ってもいいほど、大変真面目なもので、「すきずきしさなどは」その本性に似合わぬものだが、そうと知りつつ、われとわが本性を「引きたがへ」る性行もあるとは困った事だ、云々うんぬん。……
 この女房の「光源氏の品定め」は、とりもなおさず紫式部自身の「品定め」ですが、小林先生は言います、
 ――要するに難かしい人物だ、と断って置きたい。源氏という人間を理解するには、「あだなる」とか「まめなる」とかいう浅薄な標準で評価しても駄目である、という宣長の考えは既に書いたが、これが、この「帚木」の一文を踏まえたものである事を、ここでは附言する要もあるまい。……
 第十七章は、ここで一区切りされ、この後さらに「光源氏の品定め」が続きますが、「源氏物語」の巻名として全五十四帖の二番目に用いられている「帚木」という言葉は「帚木」の巻の終盤に出る光源氏の歌、「帚木の 心を知らで そのはらの 道にあやなく まどひぬるかな」から採られていて、新潮日本古典集成版「源氏物語」の頭注には、「『帚木』は信濃しなののくに、伊奈郡、園原の伏屋という所にあったぼうきを逆さにしたような木で、遠くからは見えるが近づくと見えなくなるという」と言われています。
(第十七章 了)