小林秀雄「本居宣長」を読む(三十三)

小林秀雄「本居宣長」を読む(三十三)
第十七章
中/続  光源氏の品定め その2 賀茂真淵
池田 雅延  
            

 小林先生は、第十七章で、契沖の『源註拾遺』を読まれた後に、こう言われます、「真淵」は、宣長の師、賀茂真淵です。
 ――ところが、真淵となると大変様子が変って来る。この熱烈な万葉主義者は、はっきりと「源氏」を軽んじた。「皇朝の文は古事記也。其中に、かみつ代中つ代の文交りてあるを、其上つ代の文にしくものなし。中つ代とは、飛鳥藤原などの宮のころをいふ。さて奈良の宮に至ては劣りつ。かくて今京よりは、たゞ弱に弱みて、女ざまと成にて、いにしへの、をゝしくして、みやびたる事は、皆失たり。かくて後、承平天暦の比より、そのたをやめぶりすら、又下りて、遂に源氏の物語までを、下れる果とす。かゝれば、かの源氏より末に、文てふものは、いさゝかもなし。およそをかく知て、物は見るべし。その文のつたなきのみかは、意も言も、ひがことのみ多く成りぬ」(「帰命本願抄言釈」上)……
 ここで真淵が言っている「皇朝」は日本をさし、「飛鳥あすか藤原などの宮のころ」の「飛鳥の宮の比」は今日、「飛鳥時代」と言われ、「飛鳥の宮」は「飛鳥京」と言われていて、「飛鳥京」は第三十三代推古すいこ天皇が即位した六世紀の末から八世紀の初めにかけて今日の奈良県明日香村付近一帯に置かれた豊浦宮とゆらのみや小墾田宮おはりだのみや、飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮きよみはらのみやなどの総称ですが、これに続く「藤原の宮」は第四十一代持統じとう天皇、第四十二代文武もんむ天皇、第四十三代元明げんめい天皇の「藤原京」で、七世紀の末、飛鳥浄御原から遷都して今日の奈良県樫原市高殿を中心とする地域に置かれましたが、八世紀の初め、元明天皇によって平城遷都が行われ、真淵が言っている「奈良の宮」はその遷都後の平城京、これに続く「今京」は八世紀末からの平安京、「承平じょうへい」はその平安京の時代になって一四〇年近くが過ぎた西暦九三一年から九三八年にかけての元号、「天暦てんりゃく」は同九四七年から九五七年にかけての元号で、「承平」は第六十一代朱雀天皇の時代、「天暦」は「天暦の治」と呼ばれて賞讃されている第六十二代村上天皇の時代です。
 そして真淵の主張の焦点、「たをやめぶり」、この「たをやめぶり」という語は平安時代に成った『古今和歌集』以後の女性的で優雅な歌風を批難した真淵の用語ですが、これより先にやはり真淵が言い出した男性的で大らかな『萬葉集』の「ますらをの手ぶり」に反するものとして侮蔑をこめて言われています。最後の「ひがこと」は事実に合わないこと、道理に合わないこと、です。
 以下、続けて小林先生の文章を、まるごと引用しながら読んでいきます。最初に「彼の考えでは」と言われている「彼」も賀茂真淵です。

          
 
 ――彼の考えでは、平安期の物語にしても、「源氏」は、「伊勢」「大和」の下位に立つ。「伊勢」は勿論だが、「大和」でもまだ「古き意」を存し、人を教えようとするような小賢こざかしいところはないが、「源氏」となると、「人の心に思はんことを、多く書きしかば、事にふれては、女房などのこまかなるかたの教がましき、たまたまなきにしもあらず。これはた世の下りはてゝ、心せばく、よこしまにのみなりにたるころの女心よりは、さる事をもいひ思へるなるべし」(「大和物語直解」序文)と言う。彼は、なるほど「源氏物語新釈」という大著を遺したが、「源氏」を「下れる果」とする彼の根本の考えは、少しも動きはしなかった。仕事は、田安宗武の命令による、よんどころないものであった。彼は、気の進まぬままに、『湖月抄』書入本を差出すのに、数年を費したらしい。「かの物語の抄ども、いかなる事にか、おほくは、ことはりのたがひあるは、ことはりたがはでなん有を、こたびは、こと少なにて、心明かならん様にとの御事故おんことゆえに、いよゝ書にくゝはべり。おのがむかしよりの心には、いかで万葉などを、書明らめなんことをこそ、おもひ侍るに、かゝる事に、年を経ば、さるのぞみもえせで、終りなんぞ、口をしうなん」(書簡、宝暦五年、鵜殿余うどのよ野子のこ宛)、「万葉考」に何時いつ着手出来るかを思えば、真淵は気もそぞろであった。……
「源氏」は「源氏物語」、「伊勢」は「伊勢物語」、「大和」は「伊勢物語」と並び称される「大和物語」です。
 そして「田安宗武」は真淵が仕えた武家で、徳川幕府の八代将軍、徳川吉宗の子ですが、国学をまず荷田在満ありまろに学び、次いで真淵に学んで「萬葉」調の歌人としても知られました。ところが『湖月抄』は、真淵がうとんじた「源氏物語」の註釈書で、全六十巻、正式には「源氏物語湖月抄」と言い、「抄」は難しい語句を抜き出して註釈を施す意の「抄」ですが、『源氏物語湖月抄』は江戸前期の俳人であり歌人であり、和学者でもあった北村季吟が「源氏物語」の古註を集大成して延宝二年(一六七四)に刊行、これによって「源氏物語」がいっそう広く読まれるようになったとともに『湖月抄』自体が古くからの読者にも重宝され、本居宣長も「源氏物語玉の小櫛」で「今世中に、あまねく用ふるは湖月抄也」と言っています(第十六章参照)。宗武は、そういう註釈書『源氏物語湖月抄』に真淵自身の註釈を書き入れて提出せよと命じたようなのですが、真淵にしてみれば『湖月抄』に集められた先人の説には理屈に合わないものが多く、それら、理屈に合わない説は正したかったが、宗武から簡潔に、要点をわかりやすく、と言われていたためますます書きにくかった、自分は前々から『萬葉集』など古代の言葉を明らかにする書物をまとめたいと思ってきたのに、「源氏物語」の註釈などに明け暮れていてはこの願いも果たせぬままになってしまうと残念でならない……と真淵は嘆いているのです。
 ――彼は、「源氏」を「下れる果」と割り切ってはいたが、実際に「源氏」の註釈をやってみると、言ってみれば、「源氏より末に、文てふものは、いさゝかもなし」という問題に、今更のように直面せざるを得なかった。この方は、やすく割り切るわけにはいかない。その真淵の不安定な気持が、「新釈」の「惣考」を読めば直知出来るのである。この物語の「文のさま」は、「温柔和平の気象にして、文体雲上に花美也」とめてはみるが、上代の気格を欠いて、弱々しいという下心は動かないのだから、文体の妙について、まともな問題は、彼に起りようがない。そこで方向を変え、「ただ文華逸興をもて論ぜん人は、絵を見て、心を慰むるが如し。式部が本意にたがふべし」、と問題は、するりと避けられる。……
「文華」は文章が華やかなさま、「逸興」は興趣が深いさま、で、「源氏物語」の文章の華やかさや面白さを悦ぶ人は、紫式部の本意すなわち執筆意図に背くだろう、と真淵は言い、 
 ――では、「式部が本意」を、何処どこに見たかというと、それは、早くも「帚木ははきぎ」の「品定しなさだめ」に現れている、と見られた。この女性論は、「実は式部の心をしるした」もので、式部は、「此心をもて一部を」書いたのであり、この品定めの文体は「一部の骨髄にして、多くの男女の品、此うちより出る也」とした。「万葉」の「ますらをの手ぶり」を深く信じた真淵には、「源氏」の如き「手弱女たわやめのすがた」をした男性の品定めは、もとより話にならない。まして、一篇の骨髄は、女性による女性論にある。もし作者「此英才をもて、男なりせば、実録をあらはし、万世の鏡ともなすべきを、父の嘆のごとく、一たびは惜むべし」。……
 ――しかし、紫の上を初めとして、多くの女性を語り出した、そのこまやかに巧みな語り口には、男には出来ぬ妙があり、これらはすべて、婦徳の何たるかを現して、遺憾いかんがない。それも、特に教えを言い、道を説くという、「漢なる所見えず、本朝の語意にうつして、よむ人をして、あかざらしむ」。要するに、人情を尽しているのだが、これを、いかにも真淵らしい言い方で言う。「私の家々の事にも、人の交らひにも、おのおのいはでおもふ事の多かるを、いはざれば、各みづからのみの様におもはれて、人心のほど、しりがほにして、しらざる物也。和漢ともに、人を教る書、丁寧に、とくといへど、むかふ人の、いはでおもふ心を、あらはしたる物なし。只、此ふみ、よく其心をいへり」と。誨淫かいいんの書というのは当らぬ。物語られているところは、「人情の分所ブンショ」なのであるから、「これをみるに、うまずして(飽きることなく/池田注記よくみれば、そのよしあし、自然に心よりしられて、男女の用意」、あるいは「心おきて」ともなるものだ。自分の「惣考」は、年山ねんざん安藤為章ためあきらの「紫家七論」に負うところが多いが、源氏と藤壺との間の、あの「まぎれ」の事にしても、遂に大事に至らずに済んだ、とした作者の書ざまには、「女の筆にて、なだらかなる物」があり、「宮中のおきて正しからず、人情をよくしろしめさぬ故に、まぎれあめり」という意を含んでいると見てよい。「此意を、よくかうがへむ人は、身をふるはすべきもの也」と言い、更に、「日本の神教其物を以て、諷喩ふうゆする也」とまで言う。……
 ここで言われている「年山安藤為章」は江戸時代中期の国学者で、「年山」は号です。丹波の国(今日の京都府中部と兵庫県中東部に相当する地域)に生れましたが長じて水戸の徳川光圀に招かれ、光圀が『大日本史』編纂のために設立した彰考館に入って『大日本史』とともに光圀が力を入れていた『萬葉集』の註釈事業に従事、その水戸藩独自の『萬葉集』の基礎的註釈を光圀が委嘱していた契沖を訪ねて浪速に赴き、契沖から種々の教えを受けるとともに契沖が書き上げた『萬葉代匠記』の初稿本、次いでその精選本を水戸に持ち帰るなどの重責を果たして光圀の死後、光圀悲願の『釈萬葉集』全五一冊の刊行を達成しました。しかもそのうえ、個人としては『萬葉集』以外の古典にも目を向け、『源氏物語』を論じた「紫家七論」を書いて『源氏物語』を今日風に言えば文学として読む読み方の先駆者となりました。
「紫家」は紫式部をさしていて、その「紫家七論」を開くと最初に「目録」とあり、「才徳兼備」「七事共具」「修撰年序」「文章無双」「作者本意」「一部大事」「正伝説誤」と七項目が列記されていますが、岩波書店の『日本古典文学大辞典』では「紫家七論」は次のように言われています。
 ――紫式部の人物像、「源氏物語」の本旨についての実証的研究の先駆的名著。「源氏物語」だけでなく、「紫式部日記」をはじめて論拠に用い、式部や「源氏物語」についての中世的伝説付会を打破し、式部の生没年時、「源氏物語」の成立年時の説を提出し、今日、細部についての批正を受けてはいるものの、その研究的原点としての意義は大きい。……
 ここで私が小林先生の文章から離れ、年山安藤為章に少なからず筆を尽くしたのは次のような理由によってです。先生は、「自分の『惣考』は、年山ねんざん安藤為章ためあきらの『紫家七論』に負うところが多いが」と真淵は言っていると言われていますが、この「負うところが多い」とは「源氏物語」の本質を初めて為章に教えられ、作者、紫式部の才筆に目を向けさせられた、というだけの意味合であり、真淵が高言している「源氏物語」の「たをやめぶり」、そういう雑言を為章は一言も弄していないということを読者に念のためお伝えしておきたかったのです。
 為章は、たとえば「紫家七論」の「其四 文章無双」を次のように書き起しています。
 ――物語のうち、和歌ならびに詞ども、万葉、古今、伊勢ものがたり、竹とりなどの古体をはなれて、しかもおほどかにてやすらかにやさしく、おほかた吾国の風流をつくしたれば、見る人をして倦事うむことをしらざらしむ。まことにやまとぶみの上なきものなり。……
「源氏物語」の文章を、為章は「やまとぶみのうへなきもの」と言って最上位に置いています。これに反して真淵は、「下れる果て」、最下位も最下位だと言っているのです。
 ――かくて今京よりは、たゞ弱に弱みて、女ざまと成にて、いにしへの、をゝしくして、みやびたる事は、皆失たり。かくて後、承平天暦の比より、そのたをやめぶりすら、又下りて、遂に源氏の物語までを、下れる果とす。……

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 真淵の言う「ますらをの手ぶり」「たをやめぶり」は、今日では批判され糾弾される「男尊女卑」の先駆けかとも思える偏見ですが、それはさておき、小林先生の文章に戻りましょう、先生は言います。 
 ――以上不充分な要約、それも真淵の意を汲もうとした、かなり勝手な要約だが、よわいを重ねるにつれて、いよいよ強固なものに育った真淵の古道の精神と、彼の性来の柔らかな感性との交錯を、読者にここから感じ取って貰えれば足りる。真淵の真っ正直な心が、「源氏」という大作の複雑な奥行のうちに投影される様は、想い見られるであろう。……
「真淵の古道の精神と彼の性来の柔らかな感性との交錯」、また「真淵の真っ正直な心」、と先生に言われてみれば、先生の意図は真淵の「たをやめぶり」論を云々するところにあったのではなく、真淵に「源氏物語」を「たをやめぶり」の果てとまで悪しざまに言わせたものは真淵年来の古道の精神と真淵の真っ正直な心とであったのであり、その古道の精神が真淵のなかでますます強固に根を張っていたということをこの段階で確と見定めておく、小林先生の狙いはここにあったと思われるのです。
 先生は続けて言います、「新釈」とあるのは真淵の『源氏物語新釈』です。
――宣長は、「玉の小櫛おぐし(寛政八年)に至って、初めて真淵の「新釈」に言及しているが、先師にこの註釈のあるのは「はやくよりきけれど、いまだ其書をえ見ず。たゞその総考といふ一巻を見たり。その趣、大かた契沖為章がいへるににたり」と言っているに過ぎない。要するに、「源氏」理解については、「いまだゆきたらはぬ」「うはべの一わたりの」「しるべのふみ」の一つ、と考えられているのであるから、(真淵の『源氏物語新釈』の/池田註記「惣考」が何時読まれたかは問題ではあるまい。「新釈」の仕事が完了したのは、宝暦九年だから、大体、「あしわけ小舟おぶね」が書き上げられたのと同じ頃である。数年後に成った「紫文要領」は、「新釈」とは全く無関係な著作であった、と見ていいであろう。ただ、宣長を語る上で、無視するのが不可能な真淵である、という理由から、その「源氏」観に触れた。……
 宣長は、真淵の「源氏物語」論にも「源氏物語」註釈にも、ほとんど注意を向けなかったというのです。師の著作であるからというような師弟関係の義理によってでさえも宣長は「真淵の『源氏物語』」に目を向けようとはしなかったのです。ということは、それほどまでに真淵は一途者いちずもの、融通のきかない一古学者と宣長の眼には映っていた、ということでしょう。

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 だとすれば、最後に先生が言われている、「宣長を語る上で、無視するのが不可能な真淵である、という理由から……」とはどういうことでしょうか。先生の言われる「不可能な」を斟酌しんしゃくしてみれば、この「不可能な」はあらゆる意味で、また側面で、真淵を埒外らちがいに置くと宣長特有の発言が正しく聴き取れないままになる恐れがある、なぜなら、宣長の言っていることは斬新であると同時に微妙であり、宣長の言葉を目にしただけでは宣長の発言の微妙な含蓄を正しく読み取れているかどうかの確信がもてない、だがそこに真淵の所業や発言を読み合せれば、たちまち宣長の発言の微妙な含蓄が明瞭に立ち現れる、宣長は、終生、真淵を師として敬いながらも真淵のてつは踏むまいと苦心した、だから宣長を語ろうとすれば、真淵は欠かせない、真淵は得難い逆光なのだ……、先生の言われる「不可能」は、そういう意味合においての「不可能」であり、「宣長を語る上で、無視するのが不可能な真淵」と言われているくだりは、「宣長を語る上で、熟視するのが不可避の真淵」と言われていてもよかったかと思われる「不可能」なのです。
 この、宣長が決して踏むまいと思い決めた真淵の轍は第四十三章に至って明らかにされ、以下、孤高とも言える古道の精神で凝り固まった真淵は、「萬葉集」から「古事記」へと歩を進めるはずがそうはいかなくなり、そういう真淵の難局の拠って来たるところを宣長は早くに見ぬいていたと先生は言って、そこから逆に第四十七章にかけて宣長の古学の本領を照らし出していきます。こうして一方に真淵の硬直した古学がなければ、小林先生は宣長の古学の前で立ち尽し、「古事記伝」に象徴される宣長の古学の微妙な含蓄を読みあぐんだか、それこそついには不可能であったかとさえ思わせられるのです。
(第三十三回 第十七章中続 了)