小林秀雄「本居宣長」を読む(三十四)

小林秀雄「本居宣長」を読む(三十四)
第十七章
中/下  光源氏の品定め その3 上田秋成 谷崎潤一郎 正宗白鳥
池田 雅延  
            

 小林先生は、第十七章に入って江戸時代の契沖と賀茂真淵が「源氏物語」をどう読んだかをつぶさに眺められ、続いてこう言われます、
 ――あきなりも、藤原宇万伎うまきを通じてではあるが、真淵の門下と言っていいのだし、宣長との論争は、やがて書かねばならないのだし、ついでながら、この人の「源氏」論である「ぬば玉の巻」について、ここで書いて置くのも無用ではあるまい。……
「秋成」は上田秋成で、江戸時代中・後期の国学者であり歌人であり、読本の作者でもあって読本の「雨月物語」は特によく知られ、国学者としては古伝に言う天照大神あまてらすおおみかみは太陽のことであるとする宣長の説を痛烈に批判して烈しい論争を繰り広げました。この宣長と秋成の大論争については第四十章、第四十一章、第四十二章で詳しく言及されますが、当面の第十七章では秋成の「源氏物語」論と言うより「源氏物語」談義とも言える「ぬば玉の巻」が見渡されます。以下、「――」と「……」で括った引用文は、新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集所収の「本居宣長」に拠っています。
 ――「ぬば玉の巻」が書かれたのは、「紫文要領」より十数年の後の事だ。秋成が「紫文要領」を読んでいたかどうかはわからないが、それは、ここで問題とするには当らない。「ぬば玉の巻」は、まともな「源氏」論ではなく、「源氏」に心酔し、「源氏」を書写している或る法師が、夢に現れた柿本の大神と語り合い、「源氏」の読み方についてもうひらかれる、という体裁になっているが、論旨の曖昧は、体裁によるというより、むしろ作者の基本的な考え方に由来しているように思われる。……
 ――光源氏について、秋成は、こう言っている。「ひたぶるに情深く」「よろづゆき足れる」人物と一見思われるが、実は、「執念しうねく、ねぢけたる所ある」人物で、秋好あきこのむの宮やたまかずらとの関係を見ても、「かゝる心ぎたなき人の、世のまつりごとるをこそ、まゆひそめらるれ」――「賢木さかきの巻」で「文王の子、武王の弟とずんじたるは、みづから許して、周公になずらふとや、いとかたはら痛き」――須磨すまの左遷に見られる無反省も、「教なき山がつが心なり」――。主人公ばかりではない。物語に登場する男女の心性こころぐせを見れば、皆「同じつらなるあだ人にて、いひもてゆけば、一人として道々しきはあらず」、「人ひとりがうへに、善きと悪しき打ちまじりたるは、今も求めんに、億兆の中、多くは其人なるべし。それがうへを書き出でたりとて、何ばかりのやくかあらん」。道徳的批判に全く堪えぬような本に、事々ことごとしい意味合を附会して尊ぶ事は愚かである。「の物語は、いかにもその世の有様を打ちはへて、いと面白く作りなしたれば、世の人の目を喜ばしむるさかしわざなれど、ひては何ばかりのやくなき、いたづら言なり。かうやうのふみは、京極の中納言の、たゞ詞花言葉をのみもてあそべと、さだし置かれたるぞ、げにことわりなりける」――これは、明らかに、契沖の考え方、その言い方まで踏襲したものである。……
 ――「源氏」の詞花言葉については、恐らく秋成は真淵より鋭敏だった、と言ってもよかろう。彼が、これをもてあそんで、「雨月物語」を書いた事は、その序を読んだだけでも明らかな事だ。彼は物語作者として、「読ム者ノ心気ヲシテ洞越タラシム」という「源氏」の名文を、素直に範とすれば足りた。範として成った自作を、「鼓腹こふく之閑話」と反語的に評価して置けば足りた。だが、学者として「源氏」を評価するとなれば、これは別事であった。「ぬば玉の巻」を書きながらも、作者秋成が顔を出し、「もろこしにさへ、比べ挙ぐべきはいと稀なる」「たぐひなき上衆じやうずの筆」と式部の文才をたたえるまではやさしかったが、物語の内容に触れ、物語の「大旨」を問うという事になれば、むつかしい事になった。難かしいままに、彼は真淵の考えに助けを求め、「一部のおほむね」は、作者が「雨夜の物語」を書いた「筆のすさみの行くに任せて、そこはかとなく書きひろめたる」所にあるとした。「妹夫いもせの中」を語るのが主であるから、話はおのずから男の上に、その世の栄えにまで及ぶのだが、実は作者自身の、「げにもめゝしき心の限りを書きつくしたるなりけり」とする。この物語には、父為時ためときの筆が加っていたと言う人もあるが、「ふみの心のめゝしきを思はゞ、さる論がましき事の、やくなく思ふのみ」、「強ひて、これよまん心しらひを求めば、男も女も、世にある人のうへを語り出でたるが、おほよそ隠るゝくまなく、あなぐり出でしかば、読む人、おのれおのれがきたなき心根を、書きあらはされて、今よりを慎しむべき戒ともなりなまし」。もっともこれは、強いて言えばというだけの話であって、作者は、それが目的で物語を書くような愚かな女性ではなかった。彼女の聡明は否定し難いのであり、「蛍の巻」に、「これら(物語)にこそ、みちみちしく、くはしきことはあらめ」という言葉があるが、「空言そらごと書くものゝことばの花々しきにて」、式部当人が、そんな事を考えていた筈はない。わが国の「人の道の教」というものは、元はと言えば「もろこしのひじりの君の教といふが始なるべし」、しかし、「おのが常のねがひに違ひ、ことごとこころげられ、読む程にさへ、聞くばかりにさへ、息づきのみせらるゝには、誰かは是を身に行はん」。それならば、教えを「学ぶといふは、いにしへためしどもを、広く知るのみのいたづら事なりけり」、従って、「おのづからなる大和魂は、物学ばぬ人のみにとゞまりて、儒士はかせ、法師とて物いふ人には、さらにさらにあらずなりにたり」、恐らく式部は、その事をよく知っていた女性であった、と秋成は考える。知ってはいたが、「たゞ、時の勢の推すべからぬをおそり、又おほやけの聞しめしをはばかりつゝ、いかにもいかにもうちかすめ、あだあだしく作りなせるは、ざえある人のしわざ」と言わねばならぬ。ただ、何分にも女の身の事であるから、「めゝしき心もて、書きたるには、所々ゆきあはず、かつおろかげなる事も多」いのは致し方がない。そこを思って読めば、「秋の夜の長きを、明かしかぬる心なぐさには、成りぬべき物」だが、それを「思ひかねては、深きに過ぎ、さかしらにふけりて、とざまかうざまにもてつけて云ふ」のが、愚かだと言うのである。……
 以下、小林先生の「本居宣長」からの引用を続けますが、中途の「2」「3」「4」は論旨の転換を暗示するため池田が置いた便宜上の数字です。
         
          

 ――さて、これもまたついででながら言う事だが、谷崎潤一郎氏の晩年の随筆集に、「雪後庵夜話」がある。その中に、この、現代で最も「源氏」に関心を寄せた作家の、率直な意見が見られる。光君と呼ばれた人物は、谷崎氏には、よほどやり切れない男と映っていたらしく、秋成の「執念しうねく、ねぢけたる所ある君」と言う、その言い方に大変よく似た書ざまなのが面白い。例えば、須磨へ流されたこの男のんだ歌にしても、本心なのか、口をぬぐっているのか、「前者だとすれば随分虫のいい男だし、後者だとすればしらじらしいにも程がある、と言いたくなる」、「源氏の身辺について、こういう風に意地悪くあら捜しをしだしたら際限がないが、要するに作者の紫式部があまり源氏の肩を持ち過ぎているのが、物語の中に出てくる神様までが源氏に遠慮して、依怙えこ贔屓ひいきをしているらしいのが、ちょっと小癪こしゃくにさわるのである」、「それならお前は源氏物語が嫌いなのか、嫌いならなぜ現代語訳をしたのか、と、そういう質問が出そうであるが、私はあの物語の中に出てくる源氏という人間は好きになれないし、源氏の肩ばかり持っている紫式部には反感を抱かざるを得ないが、あの物語を全体として見て、やはりその偉大さを認めない訳には行かない」――これで見ると、谷崎氏には、秋成の場合とほぼ同じように、言わば作家と批評家との分裂が起った、と言えそうである。……
 ――同じ文章の終りで、谷崎氏は、鷗外の「源氏」悪文説に触れている。婉曲えんきょくな言い方ではあるが、はっきりした抗議を蔵しているものと察せられる。「細雪ささめゆき」は、「源氏」現代語訳の仕事の後で書かれた。谷崎氏が「源氏」の現代語訳を試みた動機、自分には一番切実なものだが、人に語る要もない動機は、恐らく「源氏」の名文たる所以ゆえんを、その細部にわたって確認し、これを現代小説家としての、自家の技法のうちに取り入れんとするところにあったに相違あるまい、と私は思っている。作家潤一郎にとっては、別して「源氏」の偉大さを論じてみなくても、それで充分であったろう。が、「源氏」の作者の「めゝしき心もて」書かれた人性批評の、「おろかげなる」様は記して置かねばならなかった。そういう次第で、秋成を書いていて、潤一郎を聯想れんそうするのは、私には自然な事だが、谷崎氏の「源氏」経験というものは、今日の文学界では、想えば大変孤独な事件なのである。谷崎氏が触れた鷗外の「源氏」悪文説にしても、与謝野よさの晶子あきこの「新訳源氏物語」の序に由来するものと思われるが、これは、鷗外の名声が、話を大げさに仕立て上げてしまったというだけの事らしく、鷗外自身には、特に「源氏」悪文説を打出す興味さえなかったであろう。本文を読めば、一向に気のない、遠慮勝ちなその書きざまに、鷗外の「源氏」への全くの無関心を読み取るのは易しいのである。これに漱石の名を加えるなら、わが国の近代文学の二大先達に見られるこの無関心は、今日も尚続いていると言って過言ではあるまい。「光源氏、名のみことごとしう」と言えよう。……

          

 ――「源氏物語」、特にその「後篇たる宇治十帖の如きは、形式も描写も心理の洞察も、欧洲近代の小説に酷似し、千年前の日本にこういう作品の現われたことは、世界文学史の上に於て驚嘆すべきことである」。これは、昭和九年に発表された「文学評論」のうちにある、正宗白鳥氏の言葉だ。無論、正宗氏の意見は、「源氏」に驚嘆した上でのことであって、ここに引用したのも、谷崎氏の孤独な経験を除くと、作家らしい、個性的な「源氏」経験を、はっきり表明している人は、正宗氏のほかの著名な作家には、見当らないからである。……
 ――谷崎氏が「源氏」にかれたのはわかるが、正宗氏とは意外である、というような、お座なりな事は言わぬがよい。「雪後庵夜話」の中に、「夢の浮橋」の思い出があるが、正宗氏の、これを評した亡くなる数年前の文中にわく、「この作者は純日本の文学境地に徹しているらしく、飜訳的人生観、飜訳的文学鑑賞にわずらわされていない。こういう純粋味の作家は今後は出現しないのであろう。私は、幾つかの現代作家論を書いているが、まだ谷崎潤一郎論は書いていない。そして、人としても、作家としても、私自身と全く異っているこの作家に異様な興味を覚えるのを不思議に思っている。そして、それを一度解決して見たいと思っている」と。解決はされなかったようだが、その辺の事は、正宗氏にならって、不思議と言って置く方がいいだろう。正宗氏は、鷗外と違って、全く率直な「源氏」悪文論者である。いや、論者とは言えないかも知れない。たまたまウェレイの「源氏」英訳に接し、これを、原文の退屈と曖昧とを救った「名訳」と感じ、この「創作的飜訳」を通じて、はじめて「源氏」に感動することを得た、と言う。「紫式部の『物語』にはいて行けない気がして、この舶来の『物語』によって、あらたに発見された世界の古文学に接した思いをしている」という、まことに勝手な経験談が語られるのである。そして、谷崎氏が口籠くちごもった「源氏の偉大さ」について、このように言う。「日本にもこんな面白い小説があるのかと、意外な思いをした。小説の世界は広い。世は、バルザックやドストエフスキーの世界ばかりではない。のんびりした恋愛や詩歌管絃(かんげん)にふけっていた王朝時代の物語に、無限大の人生起伏を感じた。高原で星のきらめく広漠たる青空を見たような気がした」(「最近の収穫」)と。……

          

 以上、契沖に始まって賀茂真淵、上田秋成、谷崎潤一郎、正宗白鳥と、小林先生が辿られた「光源氏の品定め」を小林先生の後について私たちも辿ってきましたが、この言わば「光源氏の品定め行脚」は、小林先生が「源氏物語」の語り手である古女房に頼まれて、あるいはそそのかされて始められた行脚であったことを思い出しておきましょう。
 ――「光源氏、名のみことごとしう、言ひ消たれたまふとがおほかなるに、(源氏自身も/小林註記『いとゞ、かゝるすきごとゞもを、末の世にも聞きつたへて、かろびたる名をや流さむ』と、忍び給ひけるかくろへごとをさへ、語りつたへけん、(世の/小林注記人の物言ひさがなさよ。……
 ――式部は、古女房に成りすまして語りかける、――光源氏の心中も知らぬ「物言ひさがなき」人の言うところを、真に受けてくれるな、「をかしき方」に語られた「交野少将」並みの人物と思ってくれるな、源氏という人を一番よく知っている自分の語るところを信じて欲しい、――宣長は、古女房の眼を打ち守る聞き手になる。源氏という人間につき、作者が聞き手の同意を求めて、親しげに語りかけ、聞き手と納得ずくで遊ぶ物語という格別の国を作ろうと言うのなら、喜んで、その共作者になろうと身構える。……
 ――女房は、なお、念でも押すような語り口で、つづける。「――さしもあだめき、目馴めなれたる、うちつけのすきずきしさなどは、このましからぬ御本性にて、まれには、あながちに(本性を/小林註記引きたがへ、心づくしなる事を、御心におぼしとゞむる癖なん、あやにくにて、さるまじき御ふるまひも、うちまじりける」――あなた方の「目馴れた」昔物語の主人公とは、恐らく大変違った人間を語る事になるだろうが、既に、「桐壺」でほのめかして置いたように、彼の恋物語は、暗いと言ってもいいほど、大変真面目なもので、「すきずきしさなどは」その本性に似合わぬものだが、そうと知りつつ、われとわが本性を「引きたがへ」る性行もあるとは困った事だ、云々うんぬん。要するに難かしい人物だ、と断って置きたい。……
 契沖、真淵、秋成、潤一郎、白鳥……、彼らも古女房の訴えは承知していたでしょう、しかし、彼らは、契沖は別として古女房が、ということは紫式部自身が危惧したとおりに「光源氏の心中も知らぬ『物言ひさがなき』人」として現れ、宣長ひとりが「源氏という人間につき、作者が聞き手の同意を求めて、親しげに語りかけ、聞き手と納得ずくで遊ぶ物語という格別の国を作ろうと言うのなら、喜んで、その共作者になろうと身構え」、紫式部の期待どおりに「聞き手と納得ずくで」作者が「遊ぶ『源氏物語』という格別の国を作」り上げました。ということは、第十七章で繰り広げられた真淵、秋成、潤一郎、白鳥らの「物言いさがなさ」は、宣長の「心ばえ」とその如才なさをいっそう際立たせようと小林先生が意図して蒐集された彼らの口のきき方だったとも言えるのですが、「物言いさがなし」は『日本国語大辞典』に「口やかましい、口が悪い」と言われ、用例の初出は「源氏物語」の「帚木」の巻とされています。
つづく)