令和8年2月のご案内
令和8年2月の≪私塾レコダ l’ecoda≫三講座は、次のように開きます。
講師 池田 雅延
●2月19日(木)19:00~21:00
小林秀雄と人生を読む夕べ
第一部 小林秀雄山脈五十五峰縦走
第三十二峰「文化について」(「小林秀雄全作品」17集所収)
昭和二四年(一九四九)五月発表 四七歳
文化会館、文化祭、文化交流等々、現代の日本には行くところ行くところ「文化」ありですが、では「文化」とは何かと問われると日本人は答えられそうで答えられません。「文化」という言葉は、たとえば英語「culture」の翻訳語ですが、「culture」の語源には「栽培する」という原意があるから西欧人は「culture」と聞けばただちに何かを栽培して実りを得るのだな、得たのだな、と直感して事に当る、しかし、そういう語感を伴わない日本の「文化」では何事も上滑りして本来の実りは得られまいと小林先生は言い、果実や野菜だけではない、私たちは「自分自身」も「栽培」しなければならないのだと言います。
第二部 小林秀雄 生き方の徴(しるし)
「栽培」という言葉
第一部で「文化」という言葉の根源には「栽培」という営みがあると小林先生に教えられる今回、その「栽培」という言葉を第二部でクローズアップし、「栽培」という言葉は一般にどういうふうに使われているかを見渡すことによって「自分自身を栽培する」ためのよすがにしたいと思います。
「栽培」とは、『広辞苑』には「食用などに利用する目的で植物を植え育てること」に続いて「魚類などの養殖。」と言われ、「栽培漁業」の項には「種苗となる稚魚・稚貝などを人工的に育成し、その放流によって資源をふやして採捕する漁業」と、また「栽培植物」の項には「野生種から利用目的に応じた改良発展をさせて作り上げてきた植物。イネやムギなどにみられるように歴史を通じて、栽培される環境、技術、さらに栽培者の価値観などの相違によって、きわめて多数の栽培品種がみられる。」と言われていますが、だとすれば人間の場合の栽培は「教育」に通じると言えるでしょう。小林先生は世界的物理学者、湯川秀樹氏との対談「人間の進歩について」(「小林秀雄全作品」第25集所収)では「カルチュア(文化)という言葉は人間のある理想形を信じ、人間が人格を向上させる素質を持っているという信仰の上で初めて意味を生ずる言葉です。」と言っています。
●2月5日(木)19:00~21:00
小林秀雄「本居宣長」を読む
第五十章 続「この上なく尋常な死の意味」
小林先生の大著「本居宣長」は全五十章で成っていますが、今回はいよいよ最終章第五十章の、新潮社刊「小林秀雄全作品」で言えば第28集205頁の第18行から209頁の最終行までを読みます。
「古事記」の時代の日本人は、人の死を、死者は去るのではない、還って来ないのだ、と受け止め、死者は生者に烈しい悲しみを残さなければこの世を去ることができない、これがこの上なく尋常な死の意味である、宣長には古学の上でそういう意味での死しか考えられはしなかった……、と言い、大詰めで、私、小林秀雄はこの宣長論を彼の遺言書から始めたが、ここまで読んで貰えた読者には、もう一度、この彼の自問自答が読んでほしい、その用意はしたとさえ言いたいように思われる、と言って筆を擱きます。
☆――以下、特報です――☆
小林先生の「本居宣長」には二部構成の「補記」があり、昭和52年10月の「本居宣長」刊行後、昭和57年4月に刊行されて「小林秀雄全作品」の第28集にも入っていますが、私たちの「私塾レコダ」では引き続き、令和8年3月5日(木)から同年12月3日(木)までの見通しで毎月第一木曜日に「本居宣長補記Ⅰ」「同Ⅱ」を読んでいきます、ご期待下さい。
●2月26日(木)19:00~21:00
新潮日本古典集成で読む「萬葉」秀歌百首
今月の「秀歌」は次の二首です。
淡路の 野島の崎の 浜風に
妹が結びし 紐吹き返す
柿本人麻呂[251]28
もののふの 八十宇治川の 網代木に
いさよふ波の ゆくへ知らずも
柿本人麻呂[264]29・末尾の[ ]内は新潮日本古典集成『萬葉集』の歌頭に打たれている
『国歌大観』の歌番号、その次の数字は今回の秀歌百首の通し番号です。

