次回の講座ご案内

令和7年4月のご案内

 令和7年4月の≪私塾レコダ l’ecoda≫三講座は、次のように開きます。
講師  池田 雅延   

令和7年4月の講座ご案内

●4月17日(木)19:00~21:00
 小林秀雄と人生を読む夕べ

   第一部 小林秀雄山脈五十五峰縦走
     第二十七峰「実 朝(「小林秀雄全作品」14集所収) 
               昭和一八年(一九四二)二~六月発表 四十歳
 
実朝さねとも」は、源実朝です。鎌倉幕府を開いた頼朝の次男で自身も第三代の将軍となりましたが、歌集「金槐和歌集」に見られる彼の歌に小林先生は「何かしら物狂おしい悲しみに眼を空にした人間」を読み取ります。人口に膾炙した歌「箱根路を われ越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄るみゆ」も、「大きく開けた伊豆の海があり、その中に遥かに小さな島が見え、またその中にさらに小さく白い波が寄せ、またその先に自分の心の形が見えて来るという風に歌は動いている」と、実朝の心の調べを聴き取っていきます。

   第二部 小林秀雄 生き方の徴(しるし)
     「孤独」という言葉

 今回の鑑賞作品「実朝」には、「孤独」という言葉が次のように見られます、
  ――箱根路を われ越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄るみゆ
 この所謂いわゆる万葉調と言われる彼の有名な歌を、僕は大変悲しい歌と読む。実朝研究家達は、この歌が二所詣にしょもうでの途次、詠まれたものと推定している。恐らく推定は正しいであろう。彼が箱根権現に何を祈って来た帰りなのか。僕には詞書ことばがきにさえ、彼の孤独が感じられる。……
  ――大海の いそもとゞろに よする波 われてくだけて さけて散るかも
 こういう分析的な表現が、何が壮快な歌であろうか。大海に向って心開けた人に、この様な発想の到底不可能な事を思うなら、青年のほとんど生理的とも言いたい様な憂悶を感じないであろうか。恐らくこの歌は、子規が驚嘆するまで(真淵はこれを認めなかった)孤独だっただろうが、以来有名になったこの歌から、誰もかに作者の孤独を読もうとはしなかった。勿論、作者は、新技巧をこらそうとして、この様な緊張した調を得たのではなかろう。……
 こうして小林先生の作品では急所急所で「孤独」という言葉が用いられます。ということは、「孤独」という言葉は先生の人間観の急所であったということであり、四月一七日の塾当日には先生の作品から「孤独」という言葉を幅広く蒐集して先生の人間観に肉薄します。

●4月3日(木)19:00~21:00
   小林秀雄「本居宣長」を読む

     第四十五章「反面恩師、賀茂真淵の暗さ」

 前回読んだ第四十四章に、次のように言われていました、
 ――真淵まぶち晩年の苦衷を、一番よく知っていたのは、門人の中でも、宣長ただ一人であったと考えていいだろう。「よく見給へ」と言われて、宣長は、しっかりと見たに違いないが、既に「古事記伝」の仕事に、足を踏み入れていた彼は、この仕事を通して見たのである。彼には、冒険に踏み込んでみて、はじめて見えて来たものがあった。それは明瞭には言い難いが、「万葉」の「しらべ」を尽そうとした真淵の、一と筋の道は、そのままでは、決して「古事記」という異様な書物には通じていない、其処そこには、一種の断絶がある、少くとも、それだけは言える、という事であったと思われる。……
 これを承けて、第四十五章には次のように言われます、
 ――二人の仕事から、その内容を推してみると、言語に対する両人の態度の相違が浮び上って来る。或る人の物の言い方が、直ちにその人の生き方を現わす、という宣長の徹底した考え方が、真淵には見られないのである。真淵には、神の古義はかくかくのものと、分析的に規定してみせるところで、足を止め、言葉の内部に這入り込もうとしないところがある。言ってみれば、「万葉」の鑑賞や批評で、充分に練磨された筈の、その素早い語感が、此処ここでは、ためらっている。(中略)それは、真淵自身、漠然と感じてはいたが、はっきり意識出来なかった、その携わっていた問題に、言わば本来備っていた暗さ、問題の合理的解決などには、一向たじろがぬ本質的な難解性が、暗い奥の方に残った。どうしても、話は、其処に連れ戻される事になるのである。
 宣長は、この暗さをよく知っていた。と言うより、私がここで言いたいのは、もし「古事記」の訓詁くんこという実際の仕事に教えられなかったら、彼は、これを本当に納得はしなかったろうという事である。……

 4月3日の塾当日には、ここで言われている「真淵の暗さ」に光を当てます。



●4月24日(木)19:00~21:00
   新潮日本古典集成で読む「萬葉」秀歌百首


   今月の「秀歌」は次の二首です。

    楽浪ささなみの 志賀しがの大わだ 淀むとも 
     昔の人に またも逢はめやも 
              柿本人麻呂[31]8

    
ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて 
     かへり見すれば 月かたぶきぬ
              柿本人麻呂[48]9



  ・末尾の[ ]内は新潮日本古典集成『萬葉集』の歌頭に打たれている   
   『国歌大観』の歌番号、その次の数字は今回の秀歌百首の通し番号です。