令和8年1月のご案内
令和8年1月の≪私塾レコダ l’ecoda≫三講座は、次のように開きます。
講師 池田 雅延
●1月15日(木)19:00~21:00
小林秀雄と人生を読む夕べ
第一部 小林秀雄山脈五十五峰縦走
第三十一峰「鉄斎Ⅱ」(「小林秀雄全作品」17集所収)
昭和二四年(一九四九)三月発表 四六歳
鉄斎は明治・大正期の南画家です。その絵、その生き方、いずれも自由奔放、大胆不羈で、この鉄斎に惚れこんだ小林先生はある年、某所蔵家の好意で四日間、早朝から坐り通してワカガキすなわち若い頃の作品だけでも二〇〇点近いという鉄斎の絵を見て見て見て過ごしましたが、なかでも三時間以上も見続けた大作「富士山図屏風」は絵の隅々まで味わって鉄斎の心にまで思いを馳せ、私たちはあたかも鉄斎と小林先生に連れられて富士山に登っているかのような壮気を覚えます。もちろん「鉄斎Ⅰ」(「小林秀雄全作品」第15集所収)「鉄斎Ⅲ」(同第21集所収)、「鉄斎Ⅳ」(同第21集所収)も面白さは尽きません。
第二部 小林秀雄 生き方の徴(しるし)
「デッサン」という言葉
今回の第二部は、第一部「鉄斎Ⅱ」の結語部で言われている「デッサン」をクローズ・アップします。
「デッサン」という言葉は、『広辞苑』には「①線や筆触で物の形を捉えることを主眼に描いたもの。素描。②ものごとのあらすじ。」と言われ、『日本国語大辞典』には「①黒あるいはセピアなどの単色の線によって対象を簡潔に描くこと。また、その画。主に油彩画などの下絵として描かれる。素描。」と言われていますが、小林先生はこの「デッサン」という言葉をこれらの線上でこれらとは異なる意味合の比喩として用いられ、「鉄斎Ⅱ」を次のように結ばれています、鉄斎は書もよくしました。
――鉄斎は非常な読書家であった。併し、若し彼に画道という芸当がなかったなら、彼の雑然たる知識は、その表現の端緒を摑み得ず、雲散霧消したのではあるまいか。ここでも亦鉄斎の頭より眼が、眼より手が、ものを言う。死語は線によって生きたのである。頭に様々な観念を満載したこの理想主義者の企図、その知的努力の先端は、先ず書という一種のデッサンに現れたに違いない。線は色より、書は画より、余程知的な形である。この休むことを知らぬ頭は、自分の画を、企図の側からしか見なかった。言わば逆様に見ていたのである。彼は、自分は儒者だというよりも、自分は書家だと言っていた方が正確だったかも知れない。……
●1月8日(木)19:00~21:00
小林秀雄「本居宣長」を読む
第五十章 続「宗教というものの出で来る所」
全五十章で成っている小林秀雄先生の「本居宣長」を、一ヵ月に一章ずつと決めて読んできた私たちの学びも最終章となり、令和7年12月にはその最終章第五十章の前半部、「小林秀雄全作品」(新潮社刊)で言えば第28集199頁の中ほどまでを読み、今回はその後を受けて同頁の11行目からを読みます。
小林先生は、「本居宣長」は「思想の劇」なのだと最初に言われ、宣長が主役となって演じた「歌の事」から「道の事」への思想劇を詩情豊かに描き出されましたが、「道の事」の最終場面は「死の事」となり、先生は、「宣長が古学の上で扱ったのは、上古の人々の宗教的経験だった」が、宗教と言えばすぐにその教義を云々したがる現代人とは異なり、「宣長が古伝説から読み取っていたのは宗教というものの『出で来る所』であった」と言われて、妻の伊邪那美命に先立たれた伊邪那岐命が黄泉の国へ伊邪那美命に会いにいくが逃げ帰るという『古事記』の伝説を精読されます。
☆――以下、特報です――☆
小林先生の「本居宣長」には二部構成の「補記」があり、昭和五二年十月の「本居宣長」刊行後、昭和五七年四月に刊行されて「小林秀雄全作品」の第28集にも入っていますが、私たちの「私塾レコダ」では引き続き、令和8年2月5日(木)から同年11月5日(木)までの見通しで毎月第一木曜日に「本居宣長補記Ⅰ」「同Ⅱ」を読んでいきます、ご期待下さい。
●1月22日(木)19:00~21:00
新潮日本古典集成で読む「萬葉」秀歌百首
今月の「秀歌」は次の二首です。
鴨山の 岩根しまける 我れをかも
知らにと妹が 待ちつつあるらむ
柿本人麻呂[223]26
大君は 神にしませば 天雲の
雷の上に 廬らせるかも
柿本人麻呂[235]27・末尾の[ ]内は新潮日本古典集成『萬葉集』の歌頭に打たれている
『国歌大観』の歌番号、その次の数字は今回の秀歌百首の通し番号です。

