令和7年9月のご案内
令和7年9月の≪私塾レコダ l’ecoda≫三講座は、次のように開きます。
講師 池田 雅延
●9月18日(木)19:00~21:00
小林秀雄と人生を読む夕べ
第一部 小林秀雄山脈五十五峰縦走
第二十九峰「ランボオⅢ」(後編その2)(「小林秀雄全作品」15集所収)
昭和二十二年(一九四七)三月発表 四十四歳
「ランボオ」は一九世紀後半のフランスの詩人です。そのランボオの詩と小林先生が東京・神田の書店でいきなり出会ったのは数え年二十三歳の春でした。それから約二十年、自ら訳したランボオの詩集『地獄の季節』が再刊されることとなり、それを機として書いた「ランボオⅢ」でランボオと出会ったという「事件」をまざまざと思い起します。ランボオは十代半ばに詩を書き始め、二十歳前後にはもう筆を絶って世界を放浪、三十七歳で世を去りましたが、その詩魂、その生活力、その行動力、すべてに小林先生は共感し共鳴しました。「ランボオⅢ」は「ランボオⅠ」(「小林秀雄全作品」第1集所収)、「ランボオⅡ」(同第2集所収)とともに、小林先生の青春の自画像でもあるのです。
第二部 小林秀雄 生き方の徴(しるし)
「事件」という言葉
「ランボオⅢ」で小林先生は言っています、――僕が、はじめてランボオに、出くわしたのは、廿三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何んの準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見付けたメルキュウル版の「地獄の季節」の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えてはいなかった。而も、この爆弾の発火装置は、僕の覚束ない語学の力なぞ殆ど問題ではないくらい敏感に出来ていた。豆本は見事に炸裂し、僕は、数年の間、ランボオという事件の渦中にあった。それは確かに事件であった様に思われる。文学とは他人にとって何んであれ、少くとも、自分にとっては、或る思想、或る観念、いや一つの言葉さえ現実の事件である、と、はじめて教えてくれたのは、ランボオだった様にも思われる。……
今回はこの小林先生のランボオとの遭遇という「事件」とともに、「モオツアルト」(同第15集所収)によって「モオツアルトの事件」にも立ち会います。
●9月4日(木)19:00~21:00
小林秀雄「本居宣長」を読む
第四十八章 「文字なき世は、文字無き世の心」
前回は「『あやし』という言葉の使い方」と見出しを立て、宣長と同時代の学者たちの大概が「古事記」に書かれていることは「あやしい」ものだ、信じられない、と口々に言っているが、彼らの誰もが「あやし」という言葉の使い方をまちがえている、「あやし」とは、この世のありとあらゆる物事が不思議であり、理屈では説明できない、といったことを言うときの言葉であるという宣長の見識を小林先生から教えられましたが、今回はそれを受けて、第四十八章の次の件を読みます(「小林秀雄全作品」第28集p.177)。
――神代の物語の示す不合理は、まことに露骨なものであって、これをそのままに差し置いて、その上に学問を築くわけにはいかない。学問を出発させる為には、この物語の「あやしさ」を何とか始末しなければならない。宣長は、問題を、其処へ絞ったわけだが、彼が、学者達に大きな不満を抱いたのは、彼等の身勝手な始末、というより、彼等の仕事は、始末まで行ってもいないと思えるところにあった。物語を「あやし」と受止める余裕すらなく、誰もが、その合理化に走る。まるで、自分等が頼んでいる学問の常識を、根柢から覆そうと挑戦して来る相手に対し、気構える、という態度が取られる。相手の顔など、もう見もしない。これでは、「あやしさ」の始末と言っても、合理化するにつれて、望むだけの「あやしさ」が現れて来る、と言った方がいい。だが、彼等にしてみれば、身勝手な始末どころか、物語と学問とが両立しない場合、学者として、当然取らねばならなかった措置だったのである。……
しかし、と小林先生は続けます、
――宣長の眼は、どのような措置が取られようとも、両立しないという当の事実自体には、何の変りもありはしない、そちらの側を見ていた。問題は、相手の挑戦に応ずるにはない、相手の挑戦的表情を、虚心に眺めるにある。この態度転換の困難につき、宣長は、その仕事ぶりから推して、長い間、思いめぐらしていたように思われる。思いめぐらし、又しては、物語に見えるがままの、「あやしさ」の「かたち」に連れ戻される様を、私は想像に描いてみる。……
そして、第四十八章の結語へと向かいます。
――彼の観察と熟考とは、物語の見せている表情が、よって立っている根拠に向けられた。伝説の無名の作者達の心ばえからすると、このような語り方をしなければ、何一つ語る事は出来なかった、そういう内的な必然性が、誰の眼にも付き易い、物語の「あやしさ」の背後に隠れている。これを見つけ、その意味を問う事が、物語の露骨な不合理から、眼を逸らす事なく、これを本当に始末して学問の道を開く事だ。彼はそう確信した。……
●9月25日(木)19:00~21:00
新潮日本古典集成で読む「萬葉」秀歌百首
今月の「秀歌」は次の二首です。
岩代の 浜松が枝を 引き結び
ま幸くあらば また帰り見む
有馬皇子[141]18
天の原 振り放け見れば 大君の
御寿は長く 天足らしたり
倭姫皇后[147]19・末尾の[ ]内は新潮日本古典集成『萬葉集』の歌頭に打たれている
『国歌大観』の歌番号、その次の数字は今回の秀歌百首の通し番号です。