令和7年10月のご案内
令和7年10月の≪私塾レコダ l’ecoda≫三講座は、次のように開きます。
講師 池田 雅延
●10月16日(木)19:00~21:00
小林秀雄と人生を読む夕べ
第一部 小林秀雄山脈五十五峰縦走
第二十九峰「ランボオⅢ」(後編その2)(「小林秀雄全作品」15集所収)
昭和二十二年(一九四七)三月発表 四十四歳
「ランボオ」は一九世紀後半のフランスの詩人です。そのランボオの詩と小林先生が東京・神田の書店でいきなり出会ったのは数え年二十三歳の春でした。それから約二十年、自ら訳したランボオの詩集『地獄の季節』が再刊されることとなり、それを機として書いた「ランボオⅢ」でランボオと出会ったという「事件」をまざまざと思い起します。ランボオは十代半ばに詩を書き始め、二十歳前後にはもう筆を絶って世界を放浪、三十七歳で世を去りましたが、その詩魂、その生活力、その行動力、すべてに小林先生は共感し共鳴しました。「ランボオⅢ」は「ランボオⅠ」(「小林秀雄全作品」第1集所収)、「ランボオⅡ」(同第2集所収)とともに、小林先生の青春の自画像でもあるのです。
第二部 小林秀雄 生き方の徴(しるし)
「事件」という言葉
「ランボオⅢ」で小林先生は言っています、――僕が、はじめてランボオに、出くわしたのは、廿三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何んの準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見付けたメルキュウル版の「地獄の季節」の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えてはいなかった。而も、この爆弾の発火装置は、僕の覚束ない語学の力なぞ殆ど問題ではないくらい敏感に出来ていた。豆本は見事に炸裂し、僕は、数年の間、ランボオという事件の渦中にあった。それは確かに事件であった様に思われる。文学とは他人にとって何んであれ、少くとも、自分にとっては、或る思想、或る観念、いや一つの言葉さえ現実の事件である、と、はじめて教えてくれたのは、ランボオだった様にも思われる。……
今回はこの小林先生のランボオとの遭遇という「事件」とともに、「モオツアルト」(同第15集所収)によって「モオツアルトの事件」にも立ち会います。
●10月2日(木)19:00~21:00
小林秀雄「本居宣長」を読む
第四十九章 「古学の眼」
第四十九章は、次のように言って始められます、「呵刈葭」の上田秋成との論争の事は、既に書いたが、ここで、又これに触れようと思う。宣長の発言に関し、引用を、故意に保留して置いたものがあるからである。……
そして、言われます、二人の論争は、実を結ぶことなく、物別れとなった。恐らく、論争によって、両者は、互に何も得るところはなかったであろうが、評家にとっては、これを問題とした以上、不毛な論争ではなかったわけだ。と言うのは、二人は、それぞれ、論争という切っ掛けがなかったなら、決して語らなかったような語り方で、己れを語って見せたからである。私がここで言う宣長の発言とは、無論、この種の語り方の一つ、彼が確信するに到った古学の独特の性質につき、彼が己れの物としたと信じた、その所謂「古学の眼」についての発言なのだ。私には、それは論争の締め括りと言っていいような、やや解り難いが、意味深長なものに思われた。……
こう言い置いて小林先生は、宣長の「古学の眼」で古人の宗教的経験をなぞっていきます。
●10月23日(木)19:00~21:00
新潮日本古典集成で読む「萬葉」秀歌百首
今月の「秀歌」は次の二首です。
山吹の 立ちよそひたる 山清水
汲みに行かめど 道の知らなく
高市皇子[158]20
うつそみの 人にある我れや 明日よりは
二上山を 弟背と我れ見む
大伯皇女[165]21・末尾の[ ]内は新潮日本古典集成『萬葉集』の歌頭に打たれている
『国歌大観』の歌番号、その次の数字は今回の秀歌百首の通し番号です。

